内側を見るなら、自我の私たちがやっていることといえば、ずーっと外側を見ながら神に対する恨み言を
念仏のように唱えているだけだな〜と思いました。
 
外側とはその神に対する恨みの想念の投影であり、その影を見て無い壁に向かってひたすら念仏を唱えるのです。
 
ずーっとずーっと、神への恨み言をぶつぶつぶつぶつ唱えている。
 
あの原初の瞬間のとてつもない後悔を、神のせいにして恨み続けている。
神を恨んでいるなら、分離は実在のものとなる。
そうしておけばずーっと外側を見て念仏を唱え続けられる。
 
自分で望んでやったのに、投影すると反転するので、外側には神(他者や何かや状況)のせいなのだという証拠で溢れている。
 
そしてそれは、神に勝った証でもあるので、見たくて見たくてしょうがない。
そうしてさえいれば、ずーっと被害者のままでいて、分離を維持し続けられるから。
 
そうであるなら、ふつふつふつふつと延々と湧き続ける憎悪という罪悪感や恐れのバリエーションに、決して終わることはない恨みの底なし沼へと沈んでいきます。
 
神を恨んでいられれば、分離は実在のものとなる。
自我にとってはこれで完璧だからです。
 
 
しかし、別の見方がある。
 
自我はずーっとそのままなのだけど、その自分を変えるのではなく、その自分こそが嘘だと見れる視点へとシフトする。
 
そこから、それをし続けていたいという自我の狂った願望を聖霊とともにみる。
 
すると、見ている方が本当の自分なのだから、自我の私には何もすることなどないこともわかる。
 
ただ、
ほんと、狂ってるわ〜、間違ってるわ〜と微笑んで見るなら聖霊を教師として見ているはずだ。
 
そこから見るなら、自我と同一化した私たちがどれだけ美しい言葉や愛や親切の言葉を並べても、すべて攻撃と恨み言の念仏にしかすぎず、愛とは聖霊からしか語る(見る)ことができないと言うことがわかってきます。
 
その愛とは、神からの分離はあり得ないという真理であり、
それこそが唯一の救いであり、正しい見方であり、自我とは全く別の相容れない見方だということです。