「探せよ、されど見つけることなかれ」
これが、自我があなたに差し出している唯一の約束であり、自我が守る唯一の約束である。(T-12.Ⅳ.1:4.5)
これをカリキュラム用の言葉に翻訳するなら、「学ぼうと努めなさい。しかし習得してはならない」となる。(T-12.Ⅴ.7:2)
自我はむなしさや憂うつの感覚に至るだけの旅にあなたを連れ出さざるを得ないのだが、あなたはこのことに気付いているだろうか?(T-12.Ⅳ.4:1)
自我があなたにどんな旅に連れ出そうとしているのか、その旅の正体を悟るとき、あなたは確実にその力を行使するだろう。
(T-12.Ⅳ.2:6)
自我を選ぶことの代償を悟る必要があります。
でないと、
イエスの手を取ろうなんて絶対に思わないし、
この世界や肉体を教室としようとも思わないし、
自分は心なのだという自覚を取り戻すこともないでしょう。
そして、自我は言います。
コースの形而上学を学ぶだけなら、
どんどん学びなさい。
希釈した解釈の実践なら、どんどんやりなさい。
ただし、正しく実践して修得するなかれ!
と。
コースを正しく実践するなら、
聖霊とともに自我を直視していくことにより、世界も肉体も、自我も実在していないということがわかってきます。
すると、やがては、心の自覚を取り戻し、
分離は起きていなかったとわかり、
自分は神の子だったと思い出してしまうからです。
なので、
テキストに書いてあることを、ちゃんと習得してもらっては、自我は困るので、
あらゆる手段や方法を使って、それを避けようとするわけです。
学べよ!されど習得することなかれ!と。