無意識というのは本当に無意識なんだーと、
今更ながら思います。笑
そして、
いかに、心を見ているつもりになっているか。。。
全く自覚していないところを思い出していくということ。
だからこそ、無意識なのであり、
さらにそこに隠されている、
神の子の小さな狂った考えを実在のものとしたいという願望を自覚することは、なかなか難しいことだと言えます。
なので、
コースの形而上学を学んで、当てはめて実践していかないと、本当に無理だな〜と実感します。
そして、さらに、
聖霊とともに見るという形而上学がないと、
それを隠している恐れも見ることはできません。
そうなると、自我と同一化している私たちには、救いは全く見えてきません。
「無意識のものは、どんなものでもすべて、必ず、なんらかのやりかたで、外に現れてくるが、本人はそれに気づかない。」
(JACIMサイト別館 赦すけど忘れない第2回より)
無意識に隠しているものは、必ず投影されます。
そして、普通はそれに気づけません。
しかし、コースの形而上学を当てはめるなら、
夜見ている夢は無意識の現れだといいますから、
夜見ている夢と、起きている時に見ている現実だと思っている夢は「同じ」であるなら、
この世界も肉体も、無意識の投影を見ているだけなんだということもわかってきます。
そこから、「内的状況の外的映像」として夢見るものの視点から、世界や自我を見ていくなら、
少しずつ、心を自覚しながら、無意識の領域へと戻っていくことが可能となります。
しかし、そこから心に戻るなら、恐れや罪悪感があり、それはとても不快で見たくないものです。
でも、それらはまだ間違った決断の結果であり、
その奥にこそ、真の原因が隠されています。
そして、それを自覚して、
どうにもならない狂っている自分を認め、
一歩下がるなら、
それを見る視点こそが、
空席になった決断の主体を思い出した視点であり、
そこで、正しい心と間違った心を見比べるなら、私は「もう自我を選びたくない」と望みたくなるはずです。