生きるか死ぬか。勝つか負けるか。

「どちらか一方」

 

自我の思考(2+2=4)の土台となる

「どちらか一方」(=二つに一つ)という想念。

 

それは、「あなたと私は違う」=「神と神の子は違う」

という分離の想念が実在のものとなり、「私が神だ」と証明できればいい。

 

そんな二元性の思考の世界。2+2=4

 

それは常に攻撃と死に怯え

戦い続ける心となり、その投影が戦場のようなこの世界。

これが自分で望んだ結果の世界。

 

これによって分離が保たれ、

脆弱で脅かされる真の自己(神の子)"じゃないもの"となっている。

 

それを聖霊とともに見るなら、

「どちらか一方」という自我の考えを信じていること自体が"狂ってる"ということがわかってくる。

 

 

分離はあり得ない。

 

だから、自と他に分けて戦うことなんてできないのに、できると信じて戦いつづける。

 

他者、社会、ウイルス、自然災害、個人の自分の大切なものを脅かすものや存在…

 

そのありとあらゆる尽きることのない敵も

原初の誤りにより、自分で作り上げた妄想なのに。

 

 

神の子に選択などありえない。

 

「すべて同じ」という差異を見ないものに選択などありあるだろうか?

 

どちらか一方を選べるという選択肢をわざわざでっち上げて、

選択できたと信じている心の決断の主体の私が狂っている。

 

「どちらか一方」という自我の土台となる想念は、戦いと殺意の地獄の想念でしかない。

 

 

その想念を強く強く信じ続けたい私たちとは正気なのだろうか?

 

それを信じている私たちが、幸せになりたいと望んで、本当に幸せになどなれるのだろうか?

 

 

それを自覚して、その決断は間違いだったと認めることが、聖霊を選び直すこととなる。

 

そして、そこからこの愚かしさを見て微笑む。

 

 

これが、2+2=5 である聖霊の思考体系。