私たちは常に、飢えたオオカミのように罪悪を探していることに気づきます。
とにかく、他者や世界の中に罪を見たくてしょうがないのです。
それはどんな些細なことでも、罪のにおいがするなら、何でもいいし、誰でもいいのです。
それがたとえ、かけがえのない愛する人や大切な人であっても、飛びかかって食いものにして処罰したいのです。
そして、それこそが、
自分に罪があると信じているがゆえに、それに耐えきれずに、外側にその罪を投影して、
「分離はあり得るけど自分を罪なき被害者として見たい!」という自我の願望の達成された状態となっているのです。
そして、被害者であるなら、自分の正当性を主張でき、分離を維持し続けられるからです。
それが自我の思考であり、分離=違い・差異がなければありえない考え方なのです。
その考えを、聖霊とともに見るなら、
その原因は、神の子が自ら愛を捨て去ることにより、飢えさせて、その獲物を自分で外側に仕立てていることがわかってきます。
そうしておいて、自分が欲した罪をその影に擦り付けて、よだれをたらして襲い掛かるオオカミになり切っているのです。
冷静に見るなら、神の子が獰猛なオオカミになりえるなんてありえないことだとわかってきますが、
私たちはすでに分離を信じ、欠乏があると信じているので、
飢えを凌ぐためには血の滴る肉を求めるしかなく、その原因が自分だということも忘れてしまっているのです。
しかし、聖霊とみるなら、その全ての筋書きが見えるところから見るので、
その自我の全シナリオは自分で作って、自分でキャスティングして、自分で制作して、それを見て楽しんでいることがわかってきます。
そうすると、自分で作ったホラー映画やスリリングなドラマでは、すでにネタバレしているので、
ハラハラドキドキできないし、臨場感も得られず面白みがないわけです。
そうすると、幻想を見ている意味がなくなるので、自分がチーフプロデューサーであることは隠しておいて、忘れたままでいたいのです。
裏方よりも、映画の主人公としてずっと楽しんでいたいわけです。
そのためには、罪が絶対的に必要で、
その罪をなすりつける他者が必要です。
なので、罪悪は非常に魅力的で、
自我にとってはどうしてもやめられない蜜の味だということです。