神威岬灯台と 灯台守の暮らし。 | Essays in Idleness

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景色が良いので、皆さんしきりに
写真を撮られています。

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神威岬に灯台が作られたのは、
北海道に内閣直属の北海道庁が
設置された明治中期。
この時期の北海道開発は、
土地の測量や原野調査
鉄道の敷設や道路開削、築港、
北海道拓殖銀行創設など
北海道の社会基盤の整備を目的にして
行われていました。

神威岬に道内5番目の
灯台が作られた理由は、
神威岬の沖合の海が
当時、北海道奥地へ向かう
航路上の難所であったためでした。
明治期 岬沖の航行の難所ぶりは
その内容が定かではありませんが、
江戸期では、気象予測を少しでも誤ると
船の転覆・座礁に合い、避難場所もない
という困難を極めた場所であったようです。

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これは、
昭和40年代頃の写真と推測されます。
山肌を這うようにつけられた道が凄いです。

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灯台が設置されたのは
明治21年(1888年)8月25日。
内閣直属時代の北海道庁が
設置した灯台としては初、
北海道の灯台としては
5番目に設置されました。

【ちなみに
   北海道初の灯台は、
   北海道開拓の歴史上に於ける
   開拓使時代に設置された
   納沙布岬灯台(明治5年)。
   次いで
   3県1局時代に設置された
   日和山灯台(明治16年)、
   宗谷岬灯台・葛登支岬灯台(明治18年)
   と続きます。】

神威岬灯台は
神威岬北西端に設置され、
石油灯を光源とした、
第2等レンズを備える灯台でした。
灯塔は鉄造で円形を成し、
当時は赤一色の塗装が施されていました。

灯台のレンズは その後、
大正12年(1923年)にフランス製の
第1等フレネルレンズに付け替えられ、
昭和35年(1960年)には、
灯塔の改築と同時に
LB-90型灯器に変えられ、
これが更に
平成20年(2008年)
LB-M30型灯器に変更されて
現在に至っています。

吏員退息所は、
木造の寄棟造の建物で、
外壁は下見板張仕上げ。
驚くことに、
退息所と灯台間には
渡り廊下が設けられていたようです。
北国の灯台ならではの設備!

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灯台の後ろにある 空き地と塀。
ここに退息所が建っていたのでしょう。

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これは…敷石ではなさそう なので、
切石の家屋基礎?

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昭和8年「継ぎ足し」



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この灯台が 赤一色だったなんて、すごい…。
カラーで見たかった画像。

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神威岬灯台が建てられた当時は
まだ岬には山間の崖地を行く遊歩道が
整備されてはおらず、
灯台運営の物資の他、
飲料水(余別川から汲み上げたもの。
毎朝、余別川河口で河水を ひしゃくで
2斗樽に汲み入れていました)までもが
海上を手漕ぎ船で運搬され、
海抜80mの場所に建っている灯台に
人が2斗樽を1つずつ背負って
海岸から急斜面の砂利道を登って
断崖上の灯台吏員退息所へと
運び込まれていました。

生活用水は雨水や雪解け水を利用。
といっても、
岬の突端に直撃する強風が風向きを変えて
下方から上方へと向かう風となって
灯台付近に吹き付けるため、
雨水はほとんど溜まらず、
用水に困窮していたのが実情のようです。

灯台での生活に於いて
食料及び生活用品は灯台守りの家族が
崖下に細く走る岩浜を飛び歩いて
岬からおよそ4㎞ほどの距離を
余別町まで買い出しに行っていました。
そのため、
この海岸線の徒歩道の難所であった
水無岬を 俗称として
ワクシリ岬
(ワシリ→波が荒く走って通るところ
の意のなまった語からついた名のようです)
と呼んで恐れていたようです。

ちなみに、水無岬の水無は、
この岬周辺の地域が
湧水や水溜りもなく、
飲料水を得ることが困難な場所
ということが由来する地名
であるとのことです。