私に最も関心があるのは、「いかに生物の"ウェルビーイング"を実現するか」ということだ。
様々な能力とそれぞれの能力における個人差。
子ども、高齢者、障害者、数学に秀でた人、アートに秀でた人、運動能力の秀でた人、容姿に恵まれた人、うまく言語化できない人、うまく情動コントロールができない人、すぐに疲れる人、人の気持ちがわからない人。
私にとって能力とは、全て生まれ持った遺伝と育った環境による。精神要因(意欲、向上心、努力、粘り強さ、挫けない心、受け止め方、価値観)も全てその2つの産物だ。結局は能力は決定論的で不均衡で流動的なものだ。別に頑張るのが良いことだ、賢いのが良いことだ、と言っている訳ではないし、諦めてもいい、と言っている訳でもない。環境を変えることで意外な才能が開花するかもしれない。
また個人の能力は環境によって刻一刻と変化している。能力が上がったり下がったり、獲得したり、失ったり。場所によって有利な能力も変わる。
自己の苦手と得意を自覚し、得意とすることをいかに自分の存在意義とできるか。
人それぞれの苦手を受け入れ、認め合い、助け合うことができるか。
能力のない自分を愛せるかどうか。
人は自己が生存するように設計されている。そして、肥大した脳のおかげで、人類全体として多くの軋轢と犠牲を生みながらも、それは現在成功し繁栄しているように思える。
多様性が受け入れられるということは、それを受け入れる豊かな素地があるということだ。
人それぞれが自分の生存戦略を持つ。つまり自分らしく生きていける。
人の苦しみを捨ておけない。人を助けられる余裕がある。
しかし状況が変化し、どんなに状況が悪化しても、ウェルビーイングを維持できる。
それが人類が目指す場所だ、と私は思う。
それは各々が問題解決能力を身につけ、様々なリソースを利用し 「自分で解決できる」 というスキルと自信を身につけることだと私は思う。
その能力を身につけるのは、脳の神経回路を変化させることでもあるので、数年のトレーニングを要すると考える。たいてい人は必要でなければ、そこにエネルギーを費やさないけれど。
総合的に様々な能力が足りなくて、自分でリソースや援助にアクセスできない弱者がいる。人の善意と労力に頼らなければ生きていけない人達がいる。完璧に他者の良心や責任感や愛情というものに依存しなければ生きていけない人達もいる。
世の中にはそのような人達の支えになることが、自分の存在意義とできる人がいる。
私はそれをウェルビーイングを実現する共依存と呼ぶ。
私はかつて弱者だった。そしてまたいつの日か、弱者に戻る。
(今でもどちらかというと社会的弱者だとは思う。)
それは私の身の回りにいる人も同じだ。
家族や友人のある能力がない、なくなったからといって、私に利益をもたらさなくなったからと言って、捨ててしまおうとは思えない。それはその人と私の帰属意識、どのような“関係性”を持ってきたかにもよる。