父方の祖母とおばが時を違わずして旅立ちました。

 

祖母は7月4日に施設から大阪病院へ緊急入院。

総胆管結石でした。

薬で結石のつまりを取って一命を取り留めたものの、明日も判らない状況で7月10日母と妹と見舞いに。

数日前母が訪れた時には体を起こし、食事も十分自分で摂れていたようでしたが

顔にはマスク、点滴などの管が体がら伸びていました。

声を掛けていると少しして気が付いたようで

眼を開いて

声を発して

手を動かしていました。

亡き祖父の弔い上げのため会った最後の数年前から既にでに認知症も進んでいたので

その目に私たちが孫として写っていたのか図り切れませんが

妹が結婚したことを写真をもって報告すると

きれいやね、と笑っていました。

看護師さんの話を聞くと微熱が続いていて、肺と心臓に水が溜まっており

点滴の量も多すぎたようだったので減らし、排尿して排水できれば落ち着くだろうとの見立てでした。

伯父さんは手術をして結石を取り除きたいといい

父は手術できるだけの体力もないだろうから薬で結石をなくしていく方がいいと言っているようでした。

意識ははっきりしていて、マスクが気になるようで

ゴムの位置とマスクの位置を調整してあげました。

発熱・発汗して暑い、着替えたいと訴えていました。

2時間程滞在し、面会時間も過ぎていたので頑張ってねと個室から退散しました。

その時に叔父さんの嫁たるおばさんの末期癌と余命2週間もない状況を聞きました。

帰り際の祖母の様子からきっと落ち着いて元気になるだろうと思っていました。

 

翌11日深夜。病院から伯父さんがはっきりしない内容の着信を何度か受け

翌12日未明。6:14に死亡が確認されたということでした。

父と叔父さんにも伝えられ、その際におばさんも亡くなったということでした。

叔父夫婦は埼玉で告別式の日程もずらせず、今日、同じ日に執り行われているようです。

叔父一家は日曜日に祖母と最後のお別れに見えたようでした。

母と嫁を同時に亡くした叔父の心境は推し量ることができません。

 

祖母に関して私はほとんど知りませんが

大正時代に4きょうだいの長女として生まれ、勘当された長男の祖父の元に嫁ぎ、4人の子を成し、

1人夭逝してしまったものの父達3兄弟を育て上げました。

字のうまい人で沢山の賞状が棺桶に納められました。

師範の免許もあり、私が小さいころには年賀状を出すのが嫌になるくらいでした。

今は再開発で景色が変わったようですが今福の長屋の部屋には書が掛けられていました。

使い込まれた数々の筆から1本納棺し、書も納められました。

六文銭に錫杖と南京が好きだったと食事も入れ、花で埋められました。

2時間ほどで火葬され、大腿骨からは太いボルトが出てきていました。

小柄な祖母の儚い骨を骨壺に納め、初七日の法要も済ませました。

満中陰、四十九日の法要はおばと時期をずらすということでお盆明け

3兄弟で日程を調整することでしょう。

 

所々で祖父を送ったときのことがフラッシュバックして今日はとても疲れました。

 

浄土真宗によると祖母は既に仏様となって安らかにいられるそうです。

だから、念じるべきは

ありがとう、おばあちゃん。

 

曇りのち雨の予報を晴れにした風に吹かれてお別れしました。