『学徒動員から40年』ー郡山空襲の思い出ー
「発行にあたって」の辞には、下記のようなことが書かれていた。
40年前(昭和60年から見て)の戦争末期、女学校半ばに青春時代を
お国の為にささげた苦しい悲惨な体験があります。
このささやかな文集が、とかく未来にばかり走り易い今日、何らかの
証しになることを願いつつ、戦争の悲惨さ、悲しさ、苦しさ、そして空
しさを戦争を知らない子〃孫〃に伝え、二度とこのような戦争での体
験を繰り返すことのないよう願っております。 (一部省略)
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**テル子(旧姓 佐藤)
「さくら寮二十号室」
さくら寮のお部屋で学友と苦労を共にしました諸先生始め、皆々様お懐かしう
ございます。時の過ぎ行くままにあれから四十年になりますね。
私達原女十七回卒業生は、青春時代、或いは少女時代と言う言葉だけで過ぎ
てしまいました。それは予感もしていなかった大東亜戦争、太平洋戦争があった
からです。
女学校三年生の十月十四日、忘れる事の出来ない日です。郡山日東紡績工
場に学徒動員として働きに出された時のことです。
二ヶ月に一回位づつ、二晩程度泊まりにふる里 原町に帰省させられた。
父母そして祖父母、兄弟と会われるので楽しみでした。何んと言って良いか本
当に言葉に言い表すことの出来ないうれしさでした。
そんな中でだんだん戦争も烈しくなり、翌年三月末頃より生きた心地もなく、労
働と避難の連続です。
日夜警戒警報発令、つづいては空襲警報発令、防空頭巾を被って着のみ着の
まま避難したものです。又サイレンか、又サイレンかと慢性になっていました。
或る日突然、四月十二日昼頃のことでした。空襲警報発令のサイレンが慌しく
鳴ると同時に敵機B29飛行機が現れて、郡山上空や、私達の働いている工場を
そして頭上を飛び回りバラバラと雨が降って来る様に、爆弾が投下されました。
すさましい爆音と爆風の中で私達さくら寮二十号室の前の方にありました防空
壕に入って避難していました。飛行機が編隊を作り飛び廻り、自分達の頭の上
に爆弾が落ちてくるのではないかと恐ろしく、どこかへ又逃げようとさまよっ
ていました。
B29を物の陰から見上げて「ここだら危ないか」「ここだら大丈夫か」と逃げよう
と逃げ廻りは走り続けていました。
田んぼの方には深い大きな穴が爆弾で掘られた跡が、そちらにもこちらにも見ら
れました。入ったら、上がってこられない擂り鉢の様な形で
凄く大きな穴が!!恐ろしい!!
その内にようやくB29も行き去り、さくら寮の二十号室に戻って見ましたらガラス
窓や障子は跡形もなく、荒れ果てた部屋になっていました。飛び散った部屋に
ただ茫然としているばかりでした。さくら寮の辺りを見ても学友が少なく現場
で働いていた人で「怪我人が出た」と誰からとなく聞こえました。
「怪我人が誰れ」「木野田さん。相田さん。門馬セキちゃんだって」「あら可哀想
にどの位かしら 痛いでしょうネ」と心配で心配でたまりませんでした。
病院に運ばれたそうですと聞きました。先生やお友達はどこへ逃げたのか全然
見当たらず、そのうち二・三人が集まって来ましたので捜しもとめながら、聖堂
の方に行きました。中を覗くと畳がはがされて、その中には会社の従業員の
方も怪我をなさった方々が運ばれて痛そうに手足を動かしながら転がって出血
している人、すでに遺体となった人々が並び「尊い命」を見ていられず、目を閉じ
てしまいました。あの時の出来事、そして聖堂の中の面影をこの筆を走らせなが
らも目に涙が浮かんで見頭が熱くなって参りました。
たった二・三時間の出来事に沢山の犠牲者が余りにも多かったこと、今迄全然
思ってもいなかった恐怖、そして経験のない体験です。私達の大切な青春時代は
すべてが破壊され めっちゃくちゃになったわけです。さくら寮の一人ひとり、そして
学友の皆さんも一生忘れることの出来ない恐ろしい体験を共にしましたネ。
子孫に伝えながら二度と戦争のない平凡で一日一日を充実した平和な生活を
送りたいと願っております。
さくら寮の部屋で苦労を共にしました諸先生初め学友の皆々様、いつまでも
お元気でお過ごし出来ます様に、心からお祈り致します。そして忌まわしいあの
時の犠牲者となられました亡き霊に両手を合わせて合掌しながら、心より安らか
にと御冥福をお祈りする次第です。
取りとめないことばかり書き並べましたが、御判断してお読みになって下さい。
そして色々、数々の想い出を頭に思い浮かべながら経験を大切にして行きたい
ものです。
梅雨しげし 記憶たどりて つづりけり
百合匂う 乙女の頃を ふり返り
動員の 記憶新たに 敗戦記
