鎌倉殿の13人40回「罠と罠」あらすじ
親密! 源実朝×和田義盛
源実朝は、父・頼朝と同年生まれの和田義盛と親密な関係にありました。『吾妻鏡』建暦2年(1212)8月18日条によると、実朝は義盛から昔話を聞くために、御所に祇候するように命じています。また、翌3年の正月には、1日の大江広元、2日の北条義時、3日の北条時房に次ぎ、4日の「垸飯」を義盛に務めさせました。「垸飯」とは、有力御家人が鎌倉殿と御家人たちを饗応する行事であり、御家人の序列を表すものです。つまり当時和田義盛は、広元、義時、時房に次ぐ4番目の地位を占めるような有力御家人でした。義盛が上総介の官職を望んだとき、母・政子の反対もありながら実朝はその願いを一旦は受け入れます。結局は後鳥羽上皇の近臣である藤原秀康が補任されたため、義盛の願いはかないませんでしたが、二人の関係が揺らぐことはなかったのです。
御家人の支持を集め、実朝とも親密な義盛ら和田氏は、義時ら北条氏にとって非常に目障りな存在でした。
前回の39回「穏やかな一日」では、北条義時が幕府の最高権力者となった様子が描かれました。
和田義盛の上総介就任を拒み、その反対に自分の推挙する鶴丸(平盛綱)の御家人への昇格は力押しで認めさせます。
執権・北条義時が将軍・源実朝よりも力を持っていることが示されました。
そしてラストでは、後に大事件を引き起こす「公暁」が修行のため京へ旅立っていきます。
40話はその続きから始まります。
40回はここから
朝廷の企み
後鳥羽上皇は火事で燃えた閑院内裏(仮の内裏)の修復を思い立ちます。
この修復には多額の費用と労働者が必要です。
傍らには慈円僧正と乳母・藤原兼子がいて、一緒に策を考えています。
後鳥羽上皇はこれを採用します。
鎌倉の御家人たちにかかる大きな負担を、北条義時がどうさばいて行くのか、後鳥羽上皇は様子を見ることに決めました。
鎌倉では修復工事に不満を持つ御家人たちが和田義盛のもとに集まりました。
和田義盛は御家人たちをなだめていますが、次第に反対派の旗頭のように担ぎ上げられていきます。
義時にとってはそれが悩みのタネの一つとなりました。
泉親衡の乱
1213年2月、泉親衡(いずみちかひら)という武士の反乱計画が発覚します。
泉親衡は信濃国の武士ということですが、幕府の宿老たちは誰もその名前を知りません。
その謎の男は仲間を集めて御所を襲い、北条義時を殺そうとしていたようです。
三善康信が調査を行い、この計画に関わった者の名前がおおよそ判明しました。
大江広元が関わった者の名簿を差し出します。
同じ頃、和田義盛はその息子2人(和田義直、和田義重)と、甥(和田胤長)から事情を聞いていました。
最初に泉親衡から声をかけられたのは、甥の和田胤長だったといいます。
胤長はそのうち泉親衡の仲間となり、和田義直と和田義重は胤長に誘われて泉親衡の話を聞きにいっただけだという話でした。
一番不可解なのは首謀者の泉親衡で、彼は突然現れて御家人たちをそそのかした後、いつの間にかどこかに消えてしまったといいます。
大江広元は、京が鎌倉を揺るがそうとしているのではないかと勘ぐります。
…実はこの泉親衡という謎の男の正体は、源仲章でした。
和田一族の懇願
和田義盛は「泉親衡の乱」に加わった親族を養護するために御所へ向かいました。
北条時房に対し熱弁をふるいます。
その結果、和田義盛の息子の義直と義重は許されました。
しかし、甥の胤長は泉親衡にそそのかされて多くの御家人たちを反乱に誘ったため、先の2人より罪が重いということで許されず、処罰は改めて後日言い渡されることになりました。
北条義時と大江広元が密談を交わします。
2人は、源頼朝の挙兵に従った坂東屈指の豪族・上総介広常の最期を思い浮かべました。
翌日、御所の庭に和田義盛はじめ、その一族98人が胤長の赦免を求めて勢ぞろいしました。
( 鎌倉御所・庭にて。甥の胤長がひどい仕打ちを受け悲しむ義盛 )
ほとんどが義盛と同じヒゲヅラで、それが所狭しと庭に並んでいます。
胤長は陸奥国(福島県・宮城県あたり)に流罪になることが決まっていました。
ヒゲヅラの圧力に屈してこの処置を変えてしまえば幕府の威信に関わります。
義時は一歩も譲りません。
胤長は烏帽子を外されて縛られ、見せしめのように集まったヒゲヅラたちの前を連行されていきました。
和田義盛が叫びますが、実朝に会うことは叶いませんでした。
和田義盛の怒り
館に戻った義盛は怒り、三浦義村に昼間のことを話します。
御家人に人気のある和田義盛が立てば、北条義時に不満を持つ御家人たちが呼応して集まるはずだという算段です。
三浦義村は、御所に攻め入って実朝を救い義時を討ち取れば、北条ばかりが得をする今の体制を変えられるとけしかけます。
和田義盛の心は揺らぎます。
ちょうどその時、もともと病弱だった和田胤長(※連行された人)の娘が亡くなります。
最期に父親の胤長に会うこともできませんでした。
この出来事が義盛の怒りを加速させます。
義時・義村の狙い
泰時は父のやり方に反発しますが、やがて義時の真意を読み取ります。
義時は和田義盛の方から戦を仕掛けさせるつもりでした。
義時は、自分の死後、和田一族が必ず泰時の前に立ちはだかることを見越していました。
そのため、あらかじめ先手を打とうとしています。
しかし、泰時は納得できません。
義時と口論になり、とうとう泰時は謹慎を言い渡されてしまいます。
その直後、三浦義村とその弟・胤義がやってきました。
三浦義村は一方で和田義盛をたきつけ、その裏では義時と内応していました。
泰時はそのことを知って衝撃を受けます。
義村と行動をともにしている弟の胤義も義村の真意が掴めていません。
北条と和田、どちらに付くか成り行き次第で決めようとしているのではないか、腹を探ると義村は苦笑して答えます。
一方、北条政子は和田と北条のいさかいを穏便に済ませようと、奔走していました。
政子は義時に直接会って釘を刺します。
政子の顔を立て、義時は引き下がります。
しかし、その直後、近くにいた大江広元に告げます。
歩き巫女の予言
実朝は千世を伴って気晴らしに出かけていました。
いつか和田義盛に連れてきてもらった歩き巫女がいる小屋に向かいます。
実朝が中に入り、歩き巫女のおばばと千世を引き合わせました。
おばばは、実朝と千世の仲睦まじい様子を見た後、「夢を見たぞい」と話しはじめます。
実朝は青ざめます。
そこへ平盛綱が駆け込んで、御所へ戻るようにという言葉を伝えました。
御所へ戻ると、義時がいました。
今回、陸奥国へ流罪となった和田胤長の館は義時が没収したとのことです。
通常、罪を犯した者の館は同族の一門に引き渡される慣習ですので、胤長の館は和田一族に引き渡されるはずでした。
義時は、以後外出を控えるようにと実朝に忠告し、時房に命じて戦の支度に取りかかりました。
実朝の説得
実朝は政子のところへ行き、義盛と会う手立てはないかと協力を求めます。
政子の手引で和田義盛が御所に忍び込みます。
実朝は挙兵をやめるように諭しますが、義盛はこのままでは武士の名折れだとして断ります。
すると実朝は義盛の手を握りしめて本音を伝えます。
義盛は感動して涙を流しました。
北条義時と和田義盛の和解
北条義時と和田義盛が並んで座っています。
その前にいるのは源実朝と北条政子。
緊迫した雰囲気の中、実朝が話し始めます。
義時も義盛も神妙な面持ちで聞いています。
2人は実朝の要求に応え、最終的にどちらも鎌倉のために尽くすことで合意しました。
その様子を見た実朝は安心し、義盛をすごろくに誘ってから立ち去ります。
帰ろうとした義時を政子が呼び止めます。
政子は義時の言動に裏があることを見抜いていました。
今なお、義時は和田を滅ぼそうと考えていたのです。
政子は義時を叱り飛ばします。
その後、義時が廊下に出ると、和田義盛が待っていました。
義盛は義時の肩を抱き寄せて言います。
義時は義盛の雰囲気に飲まれ、いそいそと実朝とすごろくを打ちにいく義盛の背中を見守りました。
勘違いによる出陣
一方、和田の館では、義盛の帰りが遅いことを気にして息子たちが騒ぎ始めていました。
彼らは、義盛が北条の罠にはまったのではないかと疑っています。
そんな状況を見た三浦義村は、いよいよ和田一族が動くとみて弟の三浦胤義、八田知家、長沼宗政らに手の内を明かします。