鎌倉殿の13人第17話「助命と宿命」
木曽義仲追討による恩賞
『吾妻鏡』〈寿永3年(1184)4月10日条〉によると、3月27日に除目があり、木曽義仲を追討した恩賞として源頼朝が正四位下に叙されました。これは、天慶3年(940)3月9日に平将門を討ち取った藤原秀郷が六位から従四位下に昇進した先例に倣ったものです。頼朝も秀郷と同様に、坂東にいたまま勲功の賞を与えられました。また、もう一つの恩賞として、平家の都落ち後に没収され、義仲に与えられていた一部の平家没官領(没収した平家方の所領)を与えられたようです。頼朝は、敵方から奪った所領を御家人たちに与えることで、より強固な主従関係を築いていきます。
ちなみに、九条兼実が記した日記『玉葉』〈寿永3年(1184)2月20日条〉によると、恩賞を打診した後白河法皇に対して頼朝は、「上のお計らいに従うだけであり、過分の恩賞は辞退する」と殊勝な返答を行っていたようです。
放送日は5月01日20:00から
鎌倉殿の13人のあらすじ第16話で、義経(菅田将暉)の奇をてらう作戦により一ノ谷の戦いに勝利しました。
鎌倉殿の13人の第17話のあらすじは、後白河法皇(西田敏行)が義経の活躍を喜ぶところからはじまります。
第17話ここから
一ノ谷の戦いで平家を敗走させた義経を後白河法皇は気に入り、喜びます。義経自身も、自らの活躍に源頼朝(大泉洋)が喜んでいると思っていました。
義経は、後白河法皇より京を守る護衛・検非違使に推挙され任命されます。義経は、任官されたことで弁慶(佳久創)らと祝いの宴を開催します。
その宴で、義経は静(石橋静河)に目を奪われました。その頃、義時(小栗旬)は鎌倉に帰っていました。頼朝は、木曽義高(市川染五郎)について命じます。
義時は、気がすすまないが頼朝に逆らうことはできません。頼朝は、義時がどのようにうまくやるのかというのを見ています。
政子(小池栄子)は、義高が殺されることを知ると頼朝に命乞いをします。大姫(南沙良)と義高が思いあっていることを知っていたからです。
そう言われても、政子は諦めがつきませんでした。そのため、義時の制止を振り切って義高のもとに行きます。
義高は、そういって頼朝の首を隙あればとろうと考えていました。そして、その怒りは義仲(青木崇高)を救わなかった義時にも向いていました。
そして、鎌倉の御所には武田信義(八嶋智人)と嫡男・一条忠頼がやってきました。忠頼が出陣したことに対して、恩賞がなかったことを言いにやってきたのです。
頼朝は、そうかわしました。しかし、お互いに源氏の棟梁は自分だという自負をもっているため、決着をつける気持ちがあります。
信義は、頼朝の足元をすくう何か材料が欲しい。そこに、義高が幽閉されていることを知り会いに行こうとします。
その頃、義高のもとには木曾義仲の妾・巴御前(秋元才加)がやってきていました。義仲の手紙を渡すためです。
義仲の手紙には、頼朝を敵と思うなと記されています。そして、巴は義高に言います。
そのため、政子は伊豆山権現に逃げる準備をはじめました。
その話があったのちに、武田信義と忠頼が義高のところにやってきました。
しかし、義高の心が動くことはありませんでした。
その後、信義と忠頼が義高に会っていたことが頼朝に漏れ警護が厳しくなりました。そのため、政子たちは作戦を変更して、義高に会いにいきました。
実衣(宮澤エマ)の夫・全成(新納慎也)が頼朝になりすまして部屋に入ります。そして、義高に化粧をして逃げる準備をしていました。
その少しの隙に、忠頼が義高を連れていってしまいます。このことに頼朝は激怒します。
しかし、その頼朝の命に愛娘・大姫(南沙良)が小刀を突き付けて懇願します。
政子も一緒に懇願して、頼朝が折れました。そして、義時は義高を殺すのを中止するように命じたときでした。
藤内光澄が首桶をもってやってきました。すでに、義高の首は打ち取られていたのです。
政子は、声を震わし怒ります。光澄は死罪になります。義時によって、光澄の処刑、忠頼の成敗が行
われました。義経の策がはまり、一ノ谷の合戦は源氏が圧勝しました。
そして、武田信義にも頼朝に逆らわないことの起請文を書かせました。
以上が鎌倉殿の13人第17話のあらすじはここまで。
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