竈門神社の由緒には


近江国蒲生郡武佐八幡宮の社伝に、田心姫伊命瀛津島姫命市杵島姫命此三神号玉依姫命とあるなどを通観すれば、此三神は一体分身の神にして一体の時は須勢理毘売と称し(大同本記に見ゆ)


と書かれており、また平田篤胤先生も 古史成文 六十四に

 

今在海北道中。號日道主貴。此水沼君等之所神也。此三柱神。亦謂須勢理毘賣命。

 

と書いておられ、古史微の中で大同本記を紹介した後


事實を深く考へて、須勢理毘賣命と云は、やがて三女神の一柱と坐ます時の御名


と書かれていました。


そして、平田篤胤先生著「古史微」から大同本記を紹介しました。

 

吾高天原爾在時。素戔鳴尊乃十握劒乎索取。三段打折弖所生三女神乎。宇佐島降居。道中奉助天孫而。爲天孫所祭止詔之。須勢理姫乃斎奉禮留神。今丹波國。與佐乃比沼乃眞魚井坐弖。道主王子。八乎止女乃斎奉御饌都神。止由居乃神乎。吾坐國、欲止圧誨覺給支。


ここには


須勢理姫の斎き奉れる神。今丹波國。與佐の比沼の眞魚井に坐す  御饌都神。止由居の神が宇佐神島の三女神であると書かれています。


つまり三女神と豊受大神は御同神と書かれていますが、須勢理姫大神とは別神と書かれています。


それでは今回は、私が好きな菊池展明氏の「八幡比咩神とは何か」から「宗像神社史」に書かれている内容を紹介します。

 

宗像三女神と水及び農耕信仰との関係を見ると、伊勢神宮の古伝にも徴すべきものがある。即ち鎌倉時代の神宮雑例集に引く伊勢神宮の旧記なる大同本記によると、天照大神が雄略天皇の御夢に現はれ、「吾は五十鈴川上に鎮座したが、吾一人では御饌も安く聞こし

召されない。よって吾が高天原にゐたとき、素戔嗚尊の剣を執って三女神を生み、これを葦原中国の宇佐島に天降らせ、その道中にゐて、天孫を助け奉り、天孫に祭かれよと詔を下した神が、今丹波国与佐の比沼の真井に御饌都神止由居の神としてをられる。その神を吾がをる伊勢国に連れて来てほしい」(容約)と教えさとされた。天皇はその御教に従ひ、これを招き奉られたのが、伊勢の豊受大神宮で、今その御饌殿の中において、東方に天照大神の御座、西方に豊受大神とその相殿御伴

神三神との御座が、同殿に坐しますのは、その故であると記されてゐる。

これによれば伊勢神宮では、古くから豊受大神を宗像三女神とも、また同相殿神たる御伴神三神を、三女神ともする説の存したことが知られる。


宗像神社史」に書かれている内容こそが「大同本記」に書かれていることであると私は思います。が…菊池展明氏は瀬織津姫が、出雲大神と呼ばれていた可能性があると書いておられますので、宗像女神と須勢理姫大神が御同神である可能性もありますが、その根拠を「大同本記」とすることは出来ないと考えます。


果たして宗像女神と須勢理姫大神は御同神なのか?別神なのか?以前の私なら必死に女仙様にお教え下さるように祈ったと思いますが、全て女仙様に委ねたいと思います。


今回はこれで。今日は己巳なので、

市杵島姫命の御心のまにまに。