被服支廠は何を語る15 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

比治山から見たレンガ倉庫、宇品、似島の風景

 切明千枝子さんが戦争体験を語るようになったのは85歳になってからだった

 

 「戦争を忘れ去ったら、人間は同じことを繰り返す。戦争の恐ろしさや無謀さ、むごさをちゃんと伝えて、若い人に考えてもらわないと、機会があるごとに、一人でも多くの人に伝えていかないと、おおごとになるぞって。後いつまで生きているかわからないようなときになって、初めて本気になったの」(「朝日新聞」2020.8.4)

 

 切明さんは被服支廠のレンガ倉庫を「広島の歴史の生き証人」だと言われる。切明さんご自身がまさに広島の生き証人なのだが、人間は誰でも寿命というものがある。だから、もっと長く命を保てるレンガ倉庫に期待をかけておられるのだ。

 しかし、レンガ倉庫の前に立ってみて、私たちは「戦争の恐ろしさや無謀さ、むごさ」をどれだけ感じ取ることができるだろうか。

 おそらく誰でも、レンガ倉庫を一目見たら「でかいな」と思うだろう。そこから日本陸軍の強大な力を感じることもできよう。しかし、4棟のレンガ倉庫はかつての広島陸軍被服支廠の一部でしかない。近くの比治山に登って眺めてみて、ようやくその全体像が想像できる。レンガ倉庫だけでわかったつもりになってはいけないのだ。

 日本陸軍の力ということであれば、さらに大阪にも被服支廠があったこと、東京の赤羽に本廠があったこと、日本各地に出張所があり、さらに数えきれないほどの民間の工場を統制下に置いていたことも学ばなければならないだろう。

 また比治山からは、被服支廠の向こうに、かつて陸軍桟橋のあった宇品や検疫所が置かれた似島を望むことができる。軍事都市としての広島は被服支廠だけで完結するものではない。今も残る他の戦争遺跡とつなぎ合わせることで見えてくるものがあるはずだ。宇品港や似島の他にも、広島城本丸跡の中国軍管区司令部や周辺の遺跡。兵器補給廠や糧秣支廠の跡。比治山の陸軍墓地…。

山中高女と第二県女の慰霊碑

 原爆の酷さにしても、原爆ドームを見ただけではわからないものがある。かつての雑魚場町(現 国泰寺町)に山中高女と第二県女の慰霊碑があるが、ここから比治山橋や御幸橋を渡ってレンガ倉庫まで歩いてみたらどうだろう。これからレンガ倉庫の活用策を議論する中で必ずアクセスの問題が出てくると思うが、例えばシャトルバスで平和公園からすぐに行けるようにしたら、気づかないままになってしまうものがありはしないか。それは、爆心地からこれだけ離れているのに、こんなにも大変な被害があったのかということ、原爆の熱線で全身を焼かれた人たちが、こんなにも遠い道のりをたどったのかということ。

 ちょくちょくSNSを覗いてみるのだが、多くの人は半日が平和公園で、もう半日が宮島だ。それで全然時間が足りなかったと思ってもらえただろうか。また必ず広島に来て今度はじっくり歩いてみようと思ってもらえただろうか。広島は簡単にはわからない。それだけ原爆はでかい、戦争はでかい。

 

 最後に、あの爆風で凹んだ窓の鉄扉はどうなるのだろう。地震になったら危ないからと取り外されることになりはしないだろうか。ガラスケースに入れられて展示するなんてことにならないよう切に願う。

レンガ倉庫の窓の爆風で凹んだ鉄扉