被服支廠は何を語る13 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 8月15日、金谷満佐子さんは被服支廠の倉庫の中で終戦を知った。

 

 十五日、終戦を私達はきいた。私達は当然のことに思い、むしろ遅きを悔んだ。手も足もでない、たくさん腐った魚を並べたような、この凄惨な光景を一目みたならば、何人たりとも完全な敗北を感じるのみである。(金谷満佐子「ケロイドを残して」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 金谷さんはそれから半月余りを被服支廠で過ごした。脱毛や血の斑点など放射線の典型的な症状は出なかったが、火傷がなかなか治らなかったのは実は放射線の影響があったのかもしれない。それとも毎度が梅干入りのお粥一杯という食事のせいだったのだろうか。

 同じ『原爆体験記』で、第一国民学校の救護所に収容された橋本くに恵さんは手記にこう記している。

  

 (八月)二十三日頃武装解除が伝達され、二十五日暁部隊は解散、兵隊はそれぞれ帰郷し、その後を県の衛生班が引継いだが、医薬、食糧、水、看護人とそのほとんどが不足し、日に日に死者続出。校庭で屍を焼く異臭と哀哭にみち、酷暑に加え豪雨がつづいた。不潔はその極に達し、赤痢が発生、うんか以上の蠅の襲来に困った。(橋本くに恵「忘れ得ぬ親切」『原爆体験記』)

 

 被服支廠の臨時救護所も同じような状況ではなかっただろうか。

 被服支廠など市内の臨時救護所が閉鎖されたのは10月初めのこと。翌年1月になってレンガ倉庫には県立広島第一高等女学校(第一県女)の臨時教室が置かれた。学園生活が戻ってきたのだ。けれど生き残った生徒の心にぽっかりと空いた穴は、いつまでも消えることはなかった。

 第一県女は被爆当時、爆心地から南東にわずか600mの距離にあり、校舎は全壊全焼した。その日は4年生 のうち50名が看護実習で登校していたが、『広島原爆戦災誌』は、校庭に手足を吹き飛ばされて胴体だけになった遺体がたくさん転がっていたという目撃談を紹介している。

 当時第一県女4年生だった竹西寛子さんは、小説『管絃祭』で竹西さんの分身である村川有紀子に再開された学校の記憶を語らせる。待ち望んでいたはずの授業なのに、有紀子はどうしても身が入らない。あてもないのに何かを待ち、何かを探し残してきたようで気持が揺れ動いた。有紀子が待っていたのは、あの日以来姿を見せない何人もの同級生だった。

 

 動員でここに通っていた頃、たまたま初潮を知って不安そうにしている者を目ざとく見破ると、必ず揶揄(からか)うか脅すかして、同級の者から恐れられたり、なつかれたりしていたウーやんの姿は、この教室にはもうなかった。

 女の子でありながら、地下足袋や下駄をはいて動員先に通うことで同級生に勇気を与えていたオンちゃんも、どんなに頬や口もとが笑っている時でも、決して目の笑わないスーちゃんも、二度と教室には現れなかった。(竹西寛子『管絃祭』新潮社1978)

 

 ウーやんも、オンちゃんも、スーちゃんも、1年前はこの被服支廠で共に軍衣を縫い、軍人勅諭を唱え、月や星を仰いで廠門を出入りした仲間だった。女学校卒業前の2か月余り、被服支廠の臨時の教室で、有紀子は、竹西寛子さんは、あの日以来姿を見ぬ友を待ち続けた。