被服支廠は何を語る4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1945年3月10日深夜、B-29爆撃機が新型焼夷弾32万7000発を投下して東京の下町を火の海に変えた。広島県では3月19日に初めて艦載機による呉軍港内の艦船への空襲があり、広島市は4月30日に市内中心部に爆弾10発が投下された。この間、広島でも工場疎開、学童疎開、建物疎開と上を下への大騒ぎとなった。

 原民喜の小説「壊滅の序曲」には原爆が投下される前々日までの広島が描写され、被服支廠に天幕などを納める実家の原製作所(小説では森製作所)が疎開に苦労する様子も知ることができる。民喜の次兄がモデルの清二が被服支廠から工場の疎開を命じられたのは1945年3月下旬のことだった。

 

 ……ふと、そこへ、せかせかと清二が戻つて来た。何かよほど興奮してゐるらしいことが、顔つきに現れてゐた。

「兄貴はまだ帰らぬか」

「まだらしいな」正三はぼんやり応へた。相変らず、順一は留守がちのことが多く、高子との紛争も、その後どうなつてゐるのか、第三者には把めないのであつた。

「ぐづぐづしてはゐられないぞ」清二は怒気を帯びた声で話しだした。「外へ行つて見て来るといい。竹屋町の通りも平田屋町辺もみんな取払はれてしまつたぞ。被服支廠もいよいよ疎開だ」(原民喜「壊滅の序曲」1949)

 

 第一県女の4年生は1945年3月30日、1年前倒しで卒業となった。同じ日、学校にあった被服支廠分工場は広島市近郊の川内村へ疎開し、細々した荷物は12kmの道のりを生徒が大八車で運んだ。卒業しても多くは継続動員となり特攻隊の鉢巻を縫った。(皆実有朋アーカイブズ「広島第一県女の勤労奉仕・学徒動員」皆実有朋会ウェブサイト)

 被服支廠内の工場設備もほとんどが県内外に分散疎開となった。大量の原材料や完成品も同様だ。運搬には広島高等師範学校附属中学の生徒も動員されている。3年生が1944年6月から被服支廠に動員となるとしばらくして疎開が始まり、4年生になっても引き続き疎開作業が続いた。

 

 私たちの仕事は、鉄道の構内引き込み線で貨車に荷物を積み込む、自動車で山間地の寺、病院、味噌醤油の醸造所など空いている建物を徴用しているところに、トラックで荷を運び収納しておく、宇品の港で船便の荷を積み込みまたは陸揚げする、その他こまごました荷の搬送業務であった。(森武德「人間の尊厳 人の価値とは何か」2014 旧被服支廠の保全を願う懇談会編『赤レンガ倉庫は語り継ぐ 旧広島陸軍被服支廠被爆証言集』2020より)

 

 休みは月に2日だけ。連日の重労働に鍛えられ、森さんによると、40kgの荷物なら両手に一つずつ持って運び、60kgなら自分一人で担ぎ上げて肩に乗せ、100kgでも肩に乗せてもらえたら運ぶことができたという。

 しかし、こうして山間部に運ばれた大量の軍服、軍靴などは使われることなく終戦を迎えた。その一方、まともな軍服も靴も、また武器もない惨めな姿の兵隊が「本土決戦」の戦場に送られ、また広島で原爆の閃光を浴びたのだ。