被服支廠は何を語る2 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

旧被服支廠倉庫

 今年2023年3月に県の有識者懇談会は旧被服支廠倉庫の活用について3つの方向性を提案している。

 

・県民・来訪者の交流促進を目指した文化や芸術、生涯学習などの拠点

・広島の自然や歴史・文化、平和などを学べる拠点

・国内外の人々が訪れ、県民とつながり、広島を体感するための拠点(「中国新聞」2023.3.11)

 

 また県の別の有識者会議は県所有3棟の倉庫を調査して次の4点の特質から国重文の価値があると結論付けた。

 

・旧陸軍の歴史を知る上で重要な遺構

・500メートルに及ぶ景観を形成

・コンクリート工法とれんが造りを併用し、設計技術の高さを反映

・被爆の痕跡とともに、数多くの被爆者を受け入れた歴史を持つ(「中国新聞」2023.3.23)

 

 活用の具体策が決まるのはまだ先のことだが、そのキーワードは「歴史」と「交流」ということになるだろうか。

 2023年11月25日付の中国新聞の「潮流」というコラムで特別論説委員の宮崎智三さんは、旧被服支廠倉庫は「広島が、中国をはじめアジアや太平洋の国々へ多くの兵士を送り込んだ軍事拠点だったことの『無言の証人』であり、この倉庫に「軍都の歴史を伝える機能をどう持たせるか。そんな視点が必要だ」と主張されている。広島は原爆の被害を学べても、加害者としての側面は十分に発信できていないという問題提起だ。

 また被爆体験とともに被服支廠での体験を今も語り続けておられる切明千枝子さんがインタビューにこう答えておられる。

 

 ――被爆体験を話すとき、原爆が落とされた1945年よりずっと前から話をします。この意味はなんなのでしょうか。

(中略)

 「被服支廠は、太平洋戦争に至るまでの日本の軍国主義のシンボル。広島が軍都だったこと、原爆被害を受ける前は加害の地であったことの証明です。そんな歴史も知らず、『原爆にやられたかわいそうな被爆地でござい』って平和を叫んでも、空しいものがある。だから、戦前から話すんです」(「朝日新聞」2020.8.4)

 

 お二人の意見は大切だ。原爆は決して「平和な街」の上でさく裂したわけではない。けれど今、旧被服支廠倉庫の中に一歩足を踏み入れたら、誰でもここが「軍都広島」「加害」のシンボルだと実感できるかといえば、私は難しいのではないかと思う。原爆の悲惨さにしても同じだ。修復された旧日本銀行広島支店の建物に入って思ったことだが、そこでどんなことがあったのかを学ばなければ、それはただの空き部屋、貸しスペースにしか過ぎない。

 建物が「無言の証人」なら、誰かが代わりに語るしかない。かつてある高校放送部が旧日銀広島支店を取材した番組のタイトルは、「この場所が語らせる」だった。旧日銀広島支店で5年間警備員をしながら被爆証言と資料を集められた難波康博さんを取材した番組だ。多くの証言に耳を傾けることで難波さんは旧日銀広島支店の建物が今もまるで生きて声をあげていると感じるようになったのだ。

 まずこの場所に立っているからこそ語れるものを見つけること、それに耳を傾けること、そして旧被服支廠倉庫で出会った人たちがそれぞれの思いを語り合うことが大事ではなかろうか。そしてそこから視点を広島の街へ、日本全体へ、そして過去から現在と未来の世界に向けていく。旧被服支廠倉庫がそんな場所になったら素晴らしいのではなかろうか。