「軍都」壊滅105 最後の軍隊21 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 沖縄戦では17歳から45歳までの男が「防衛隊」とされて戦闘にも加えられ多くの命が失われた。また14歳から17歳の少年を集めてつくった「護郷隊」というゲリラ戦部隊も活動した。地区特設警備隊や国民義勇隊(義勇戦闘隊)は、それらの「本土」版と言えるだろう。

 「本土決戦」の正規軍がアメリカ軍と戦って壊滅状態となれば、そのあとで戦うことを強いられる「本土」の人たちは、沖縄の人たちと同じように酷いことになるのは明らかだ。それでも軍隊は人々を地獄行きの道連れにしようとした。中でも目を引くのが、「帝都防衛」作戦だ。

 広島市に司令部のあった第二総軍や第59軍は広島市を防衛するための軍隊ではない。それは他の本土決戦部隊も同じ。ただし一つだけ、都市防衛軍がつくられている。中国軍管区・第59軍司令部と同じ1945年6月12日に司令部編成が発令された「東京防衛軍」だ。

 6月8日に開かれた最高戦争指導会議では徹底抗戦が決定されているが、アメリカ軍が関東地方に侵攻すれば沿岸部に配置された日本軍は全滅が予想された。その時、「帝都」だけは陸軍のメンツにかけても死守しようとしたのだ。

 守備範囲は概ね山手線の内側で、東側の防衛線は浅草から隅田川に沿って海岸に至る。そして作戦は「一箇年ノ持久ヲ目途」とされた。(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土決戦準備〈1〉関東の防衛』1971)

 すでに長野県松代一帯で天皇と政府や軍の首脳が籠るための大規模な地下壕の工事が進んでいたが、さらに6月初めには宮城内でも6トン爆弾に耐えられるという地下壕の工事が始まり、7月末に完成した(日垣隆『松代大本営の真実』講談社現代新書1994)。

 アメリカ軍が関東に上陸し東京が包囲されても「帝都」を死守し続け、その間にどこかでアメリカ軍に痛烈な一撃を与え、それをもって地下に潜んでいた政府が連合国と交渉して「国体護持」を条件とする停戦に持ち込むというのが日本の政府と軍部の願望だったのだ。

 しかしそれはかなり無理がある。まず、東京が包囲されたら食糧はどれだけ持つというのか。

 1945年4月19日、第一総軍は市ヶ谷台に配下の方面軍参謀長を集めた。そこで総軍参謀長は、物資が極めて不足していることから「自給自戦能力」の強化に努めるよう指示している。「東京防衛軍」の主力は3個の警備旅団で歩兵の人数は約11,000人 (『戦史叢書 本土決戦準備〈1〉関東の防衛』)。 それがみんな銃の代わりに鍬を持ったとしても、東京の真ん中で食糧がどれだけ自給できるというのだろう。

 まして、東京都区部の人口は疎開が進んだ1945年6月でも約254万人(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土防空作戦』1968)。その頃すでにその誰もが飢えていた。日本SF小説の始祖と言われる海野十三の5月20日の日記。

 

 「ジャガイモを腹一ぱい食べたい」と岡東はいう。加藤さんが会社から帰るとき電車の中で押されても、腹がへっていて押しかえす力がないという。きょう枝元老人から手紙が来て(企画用紙送り来る)「この用紙を届けに行くべきながら、お粥腹(かゆばら)で歩けないので、郵便にします」と断りの文句があった。(海野十三「敗戦日記」青空文庫)

 

 「本土決戦」になって鉄道や道路が遮断され港が封鎖されたら、東京は「飢餓地獄」となるのは間違いない。