「軍都」壊滅95 最後の軍隊11 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島城本丸跡にあった中国軍管区・第59軍司令部の空襲の備えも貧弱だったと言わざるをえない。原爆で中国軍管区・第59軍司令部の藤井洋治司令官は即死したが松村秀逸参謀長は九死に一生を得て被爆体験記を残している。原爆で圧し潰された官舎の下から抜け出た松村参謀長は血まみれの体で司令部に急いだ。

 

 私は、地区司令部の前から、堀に沿って城門の方に曲がった。歩兵営からも、砲兵営からも、軍司令部からも、兵隊が、赤く焼けた両手を、芝居に出てくる幽霊のように胸の前に高く差し上げながら、続々と飛びだしてくる。 (中略)

 「中国軍管区司令部」と、肉太に書いた標札のかかった城門は、今、黒煙を吐いて燃えつつある。司令部も赤い焔を吐いている。(松村秀逸「原爆下の広島軍司令部」『実録太平洋戦争』中央公論社1960)

 

 広島城址一帯の兵舎はみな木造。司令部庁舎も玄関部分のコンクリートだけを残して焼失した。これでは通常の爆弾や焼夷弾でも、命中したら、ひとたまりもないだろう。

 これに対して九州や大阪の上部組織は爆弾や焼夷弾にも耐えられるよう対策を取っていた。第二総軍司令官畑俊六の手記にこう書いてある。

 

 西部軍司令部は六月頃既に二日市西南高地に地下司令部を構築しありたり(畑俊六「第二総軍終戦記」1954『広島県史近現代資料編I』)

 

 第二総軍の発足とともに、それまでの西部軍が九州を担当する西部軍管区・第16方面軍として再編成された。九州では引き続き「西部軍」と呼ばれたらしい。司令部は福岡城址にあった。防空作戦室は、今は地下の基礎部分しか残っていないが、地下1階地上2階の立派なものだったとある(福岡県教育委員会『福岡県の戦争遺跡』2020)。

 しかし西部軍司令部は1945年6月19日の福岡大空襲の後、福岡南東20kmの宮地嶽南麓に造られていた巨大な地下壕に移っている。

 地下壕の工事はその半年前ぐらいから始まっていたようだ。関門トンネルの実績がある熊谷組が請け負い、筑豊炭田の坑夫や朝鮮人労働者が大量に動員されての突貫工事だった。硬い岩盤をくり抜いたトンネルは総延長約4km、最大断面は幅13m、高さ7m余。写真で見るだけでも凄いと思える。(筑紫野市教育委員会『ちくしの散歩 西部軍司令部跡』2000)

 しかし防衛庁(当時)の『戦史叢書 本土決戦準備〈2〉九州の防衛』によると、第16方面軍司令部は南九州での「決戦」のため1945年9月には熊本県の今の菊池市あたりに移る計画だったとか。それが軍隊の司令部というものかもしれない。

 第59軍の上位組織となる第15方面軍の司令部だってアメリカ軍の空襲にも耐えた頑丈な鉄筋コンクリートの建物(現「ミライザ大阪城」)に入っており、本丸跡地下には待避壕も作られていた。

 中国軍管区・第59軍司令部はどうするつもりだったのだろう。空襲はいつあってもおかしくはなかったのに、広島城本丸跡から動いていない。それとも、どこかで密かに地下壕を掘っていたのだろうか。あるいは別の場所に移転する計画でもあったのだろうか。

 7月になって東京から転勤してきた松村参謀長は、木々の緑と寺院の甍や土蔵の白壁が美しい広島の街が気に入ったようだ。手記にこんなことを書いている。

 

 私は、古城の中にある軍管区司令部に通勤しながら、幾度か、この町が、このまま焼けないで残ってくれればよいがと念願したのだった。(「原爆下の広島軍司令部」)