ヒロシマの記憶35 遺体の浮ぶ川2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

あの日は遺体が川面を埋めた

 広島市内を流れる川は潮の満ち引きがある。川に浮ぶおびただしい数の遺体は流されていったかと思えば、満潮でまた戻ってくるのだった。広島一中3年生の時に被爆し先日亡くなられた作家の中山士朗さんが書いておられる。

 

 …この潮の満ち引きから、ある老人の言葉が思い出されます。

 「川をおおっていた遺体が、引き潮の時にはすうっと消え、満潮になるとまたもどってきて川をおおってしもうた。離れとうなかったんじゃのう」(関千枝子 中山士朗『ヒロシマ往復書簡 第1巻』西田書店2015)

 

 川に浮ぶ遺体の収容は6日の夜から始まったようだが(志水清編『原爆爆心地』日本放送出版協会1969)、人手も少なく道具もなければ作業は進まない。市内中心部での遺体の収容は主に江田島の幸ノ浦から市内に入った陸軍船舶練習部第十教育隊が担当したが、和田功さんは実際に作業した一人である。

 

 八月八日、相生橋東詰の産業奨励館(原爆ドーム)の下の川岸にたどり着く。元安川に流れている死体の収容作業が始った。満潮になれば潮に乗って上へ流れ、引潮になれば下に流れて行く死体を一体ずつ引揚げた。川の中に飛び込み、泳ぎ、足に綱を掛けて岸から引寄せる。一日約五十~六十体位火葬した。特に軍人が多かったように思う。みんな水死体にある如くブクブクに膨張し、鼻から水がブクブク、泡を吹いていた。水に漬った皮膚はすっかりふやけて青白く面変りしていた。強く皮膚を引張ると、ズルッと皮がむけたりした。(「被爆者救援活動の手記集(暁部隊)」)

 

 陸軍船舶練習部第十教育隊長の斉藤義雄さんによると、吉島刑務所の囚人も舟に乗って川から死体を収容する作業に従事したようだ。数十体の膨張しきった全裸の死体が川岸にずらりと並べられた有様は見るに耐えないものであったという。(「被爆者救援活動の手記集(暁部隊)」『広島原爆戦災誌』)

 それはもう、まともな神経ではやってられなかっただろう。正田篠枝が歌に詠んでいる。

 

 筏木の 如くに浮ぶ 死骸を 竿に鉤をつけ プスッと さしぬ

 

 一日中 死骸をあつめ 火に焼きて 処理せし男 酒酒とうめく

 (正田篠枝「さんげ」『耳鳴り』平凡社1962)

 

 それでも、いつまでも漂う遺体があった。高本正義さんが絵に描き残したのはひとりの女学生の遺体。

 8月7日、広島を流れる川のひとつ天満川の河口にも何体もの遺体が漂っていたが、高本さんは広島のあまりにも多すぎる死に、もう悼む気持ちも失っていた。

 8月16日には浮いているのは女学生の遺体だけとなった。その遺体は棒で押し出して沖に流そうとしても、満潮になると必ず高本さんが仕事する船の傍に戻ってくるのだった。

 ひと月が過ぎ、腐敗して胴体だけになっても船の周りを離れない遺体。ようやく沖に流れていったかと思ったら、二日後にまた戻って来た。それは9月12日のこと。この時になって、高本さんは不思議な因縁を感じ、遺体を浜に引き上げて葬った。こんなに長く放っておいてしまって申し訳なかったと、高本さんは涙を流しながら手を合わせた。(NHK広島放送局『原爆の絵 ヒロシマの記憶』NHK出版2003)