『耳鳴り』以後11 最後の訴え2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 もう二十年たったあの日のことをしっかり

 思い出し為(な)さねばならないことがあるんだのに

 核実験がいくたびも繰り返されているんだのに

 今日も放射能をふくんだ雨が降っていますのに

 (正田篠枝 詩「罪人」部分 正田篠枝遺稿編集委員会『百日紅―耳鳴り以後―』文化評論1966)

 

 正田篠枝は自分にはやらなければならないことがあるのだと気負う。けれど、何もできていない自分。自分は一体何ができるのだろうかと随分悩み苦しんだことだろう。それは正田篠枝ひとりではなかった。

 1962年4月25日、ソ連の核実験再開に対抗してアメリカも中部太平洋のイギリス領クリスマス島(現キリバス共和国 キリスィマスィ島)周辺海域で大気圏内核実験を再開する。それに先立つ4月20日、森瀧市郎と吉川清は核実験中止を要求して原爆慰霊碑前の座り込みを始めた。「絶望的な核実験競争時代」の到来を前に反対の署名活動をやり集会を開き、あとはもう座りこむしかないという心境だった。

 

 熱烈なる君を尊び慰問品持ちて寄りゆくすわりこむ座に

 (『百日紅―耳鳴り以後―』)

 

 森瀧市郎と吉川清の座り込みは大きな反響を呼び、被爆者、宗教者、一般市民、学生たちが次々と座り込みに参加していった。しかしその間、森瀧市郎には生涯忘れられない出来事があった。

 

 或る日私が座りこんでいる前を往ったり来たりしていた小さな女の子がつぶやいた、「座っとっちゃ止められはすまいでえ」と。このつぶやきは私の胸に深くつきささった。ここにじっと座っていて実験をくいとめることができるのかという大きな質問として。(森瀧市郎「『座りこみ十年』の『前史』と理念」『核絶対否定への歩み』広島県原水協1994)

 

 森瀧市郎は考えに考えたという。そして出した結論は、平和運動はあくまでも非暴力の行動でなければいけないということだった。では非暴力の典型である「座り込み」はどんな力を発揮するのか。

 

 私は決意をかためて或る意味で日常的な自分を棄てて慰霊碑の前に座りこんだ時、座りこみの輪が日々にひろがり、人間精神の連鎖反応とも言うべき姿を実感した時に「これだ!」と思った。そのきもちを私は次のような言葉に表現した。

 精神的原子の連鎖反応が

 物質的原子の連鎖反応に

 かたねばならぬ(「『座りこみ十年』の『前史』と理念」)

 

 原爆慰霊碑前での座り込みは1973年からは核実験のたびに行われるようになった。ささやかな取り組みだが、少しずつ横のつながりができていった。それが森瀧市郎の言う「精神の連鎖反応」。今では世界がつながり、そして大きな成果を生み出している。

 

 正田篠枝も望みは最後まで捨てなかった。

 

 かたことの言葉言いそむ初孫よ悲しき世紀の死の灰降らすな(『百日紅―耳鳴り以後―』)