「原爆ドームの軌跡」展 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

「原爆ドームの軌跡」展  平和記念資料館地下1階

 先月、平和記念資料館に「原爆ドームの軌跡」展を見にいった。お目当ては、私が提供した一枚のハガキだ。

 ハガキは、3、4年前に古い机の引き出しから出てきた。内容は、「大日本婦人会広島県支部」が私の祖母を1944年11月13日付で「傷痍軍人結婚斡旋委員」に委嘱するというもの。翌1945年1月9日の消印が押してある。私の伯父が戦場で負傷し下半身不随となったことからの話だろう。

 目にとまったのは、「大日本婦人会広島県支部」の住所だ。「広島市猿楽町15広島県産業奨励館内」とあった。今の原爆ドームである。おそらくは今のところ、当時の産業奨励館に「大日本婦人会広島県支部」があったという唯一の証拠だ。

「広島県地方木材統制株式会社」の慰霊碑

 おりづるタワーを横目に見ながら歩いて平和公園に入ると原爆ドームが正面に見える。そしてその前に大きな石の慰霊碑。初めての人は原爆ドームの慰霊碑と思われるかもしれないが、実はこの慰霊碑、当時産業奨励館の中に事務所があった「広島県地方木材統制株式会社」の慰霊碑なのだ。原爆ドームのそばにはもう一つ、「中国四国土木出張所職員殉職碑」もある。

 産業奨励館は1944年3月末をもって本来の業務を終了し、『広島原爆戦災誌』によれば、「中国四国土木出張所や広島県木材統制株式会社など、官公庁や統制組合の事務所にかなりの部分が使用されるようになった」とある。そして原爆により「館内にいて被爆した者はすべて即死した。その数三〇人ばかりと伝えている」。

 しかし「30人ばかり」という根拠がよく分からない。そして「広島県地方木材統制株式会社」や「中国四国土木出張所」の他にどのような事務所があったのかも知ることができない。

 今回の「原爆ドームの軌跡」展では産業奨励館の1階から3階までの平面図を掲示し、1階には「内務省経理課」「(信用組合)」「広島県土木出張所」の場所を示している。同様に2階は「広島県地方木材株式会社」「広島船舶木材株式会社」「日本木材株式会社広島支店」「広島県警察部保険課」、3階はフロア全部が「内務省中国四国土木出張所」としている。

 さらに館内のどこにあったか不明ながら次の事務所が当時産業奨励館内にあったとする。それは「広島県健康保険相談所」「日本貿易振興株式会社広島出張所」「燃料配給組合(関西石油を含む)」「広島県林産物検査所広島出張所」「広島県縫針工業組合」そして「大日本婦人会広島県支部」。

 「広島県地方木材統制株式会社」は慰霊碑の碑文に「100余名がドーム内外に於いて被爆殉職した」と刻んである。その日の始業は前夜に空襲警報があったので午前9時となっていた。しかし証言によるといつものように8時に出勤して来た社員もいたという。(朝日新聞広島支局『原爆ドーム』朝日文庫1998)

 この会社だけでもあの朝に館内で何人亡くなったか分からないのだ。ましてや名前しか残っていない事務所の亡くなった人のことがどうしてわかろうか。

 一枚のハガキでやっと所在だけが分かった「大日本婦人会広島県支部」。誰がいたのか、いなかったのか。すべては原爆の熱と爆風で消し去られてしまった。原爆ドームはただ建物が残ったというだけではない、中に人がいて死んだのだということを、どうしたら訪れた人に感じてもらうことができるだろうか。