被爆者が語りだすまで32~空白の10年7 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

基町河川敷 小さな3代目ポプラの木が見える(撮影2015)

 今から10年前、某高校放送部は基町河川敷に育つ一本のポプラの木を取材した。ブログ「骨は今も埋もれたままか 基町河川敷」にも書いている。

 場所は広島中央公園西側の川沿いの緑地帯だ。そのときは2代目のポプラが育っていて、隣のニセアカシアの木とともに「ポップラ・ペアレンツ・クラブ」の人たちがお世話されていた。

 初代のポプラの木は私も憶えている。夕暮れの空に向かってすっくと立っているポプラの木はとても美しかった。けれど2004年に台風で倒れてしまい、そのあとをヒコバエの二世が引継いだ。

 ところがその二代目も病気で枯れてしまったのだが、今は三代目が元気に育っている。

 私は、初代のポプラが植えられたのは、1967年の基町の大火災の後だろうと推測している。緑地帯は、かつては「桜通り」とも「相生通り」とも呼ばれた、多くの人の暮らす街だったのだ。

 戦後、広島の「復興」によって住処を追われた人たちの中には中島地区(今の平和公園)にバラックを建てた人たちも多かった。

 原爆で壊滅した中島地区だが、住んでいた人が全滅したわけではない。その日朝早くから遠方に働きに出て命拾いして、すぐに元の場所にバラックを建てた人たちがいた。

 2019年の平和記念資料館企画展「海外収集資料から見る広島の原爆被害と復興」で紹介された写真の中に、1945年11月ごろ中島地区の北端(慈仙寺鼻)にバラックを建てている様子がうかがえるものがある。中国新聞社『炎の日から20年』(未来社1966)にある「旅館業小田繁市さん(五七)は、原爆のとし十月、慈仙寺鼻にバラックを建てた」という記述と符合する。

 1947年夏、菊池俊吉さんが撮影したパノラマ写真(広島平和記念資料館企画展「菊池俊吉写真展」2008)になると、初代供養塔の周りに2、30軒バラックが建っているのを見ることができる。

 しかし中島地区は1946年11月に「大公園」に指定され、そこに土地を持っていた人たちはその後指定された別の土地(換地)に移っていく。その一方で、「公園建設予定地」の空き地に住処を失った人たちが押しよせたのだ。公共の土地であろうが、背に腹は代えられなかった。

 そのバラックが強制的な「立ち退き」の対象となった。佐々木雄一郎さんが1952年に撮影した平和公園の写真は、現在の芝生広場の辺りがすでに更地になっていて、当時の燃料会館(現レストハウス)の周りはまだバラックで埋まっている。(佐々木雄一郎『写真記録 ヒロシマ25年』朝日新聞社1970)

 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターのデータベースによると、広島市東部復興事務所が平和公園建設予定地にある住宅約320戸に立ち退き戒告書を送付したのが1951年12月。浜井信三市長は立ち退き反対の陳情を一切受け付けず、バラックの人たちは出て行かざるをえなかった。

 『炎の日から20年』の「相生通り」には、「(昭和)二十七年、下流の対岸になる平和記念公園の工事が本格的に進みだした。どっと七十戸近くの立ちのきバラックがなだれ込んで来た」という記述がある。

 西井麻里奈さんは『広島復興の戦後史』(人文書院2020)で、原爆慰霊碑の完成に差し障る公園敷地南半分の立退きが優先的に進められた結果、そこから追われた人たちだろうと推測される。

 「相生通り」のバラックはそれ以後も増加の一途をたどり、1970年頃には1000戸を超えたと言われるが、1967年の大火災を機に広島市は基町再開発を始め、1978年に完了した。緑地帯のポプラとニセアカシアの木は、かつてそこに街があったことを示す記念樹といってもいいだろう。

 それにしても、広島の原爆の後の住宅問題は、とてつもない時間と人の努力が必要だった。