平和公園の外もヒロシマ13~広島城本丸跡2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 8月6日午後3時か4時ごろ、中国新聞の大佐古一郎記者は猛火の中を潜り抜け、中国軍管区司令部の焼跡にたどり着いた。そこには松村秀逸参謀長がいた。

 

完全に灰となった木造の司令部前の石に、見慣れた顔の松村参謀長は、腰を下ろしていた。三角巾で首に吊るした右腕は、繃帯に巻かれ、はだかの上半身にはガラスの破片で受けたような傷あとが点々とあり、短袴と長靴だけが少将の姿をとどめていた。参謀長は案外元気に答えてくれた。 

「西部軍も中国軍管区も、えらい人はみな戦死らしい。動けるのは俺一人のようだ。大本営の指示があるまで、わしがこちらの責任者になってしもうた。…上流川の官舎で家の下敷きになって、このざまだよ、とにかく動けるよ。…ときに何か情報ははいっとらんかね。」(『広島原爆戦災誌』)

 

当時比治山高女3年で8月5日夜から徹夜で地下壕内の指揮連絡室に詰めていた恵美敏枝さんによると、「六日、午前四時頃、一応警報がとかれ、師団長(ママ)閣下以下皆自宅や兵舎にひきあげられた」。(恵美敏枝「通信室・終戦まで」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』1969『広島原爆戦災誌』所収)

当時中国軍管区司令官藤井洋治中将は自宅に戻って原爆で即死した。

松村参謀長の手記によると、司令部庁舎に残っていた参謀は8月末に亡くなった青木信芳中佐以外は皆即死したようだ。(白井久夫『幻の声―NHK広島8月6日―』岩波新書1992)

広島城本丸跡には中国軍管区司令部の庁舎が数棟並んでいたが、原爆であっという間に押しつぶされ燃え上り、残ったのは一号庁舎(今の護国神社境内のあたり)のレンガ造りの玄関部分だけだったことが戦後アメリカ軍撮影の写真で知ることができる。(広島平和記念資料館ホームページ平和データベース)

第五師団を引き継いだ中国軍管区司令部はここに壊滅した。

7日、戸坂にいた肥田舜太郎軍医は緊急招集ということで中国軍管区司令部の焼跡に出向いた。

 

うず高くつみ上った天守閣の残骸を背に方面軍司令部があった。司令部といっても天幕一張りあるわけではない。全身を包帯に包んで目だけの高級将校が石垣に立てかけた担架に身をもたせていた。そのまわりを血を滲ませた包帯姿の将校らしい数人がとりかこんでうずくまっている。1人が奉持する房だけになった軍旗が辛じてその1団の権威を誇示していた。その前に整然と並んで腰をおろしている集団の中の1人が立って報告していた。立っているのもやっとらしいヤケド姿だったが声だけは大きく城の広場にひびいて通る。

「西部第○○部隊、総員一千何百何十・・・、現在員4名、死者多数なるも詳細不明」。続いてその隣が立つ、「西部第○○部隊、総員一干何百何十・・・、現在員6名、死者多数、状況は不明」

どこまで聞いても現在員の数が10名を越える報告はない。(肥田舜太郎「一軍医の記録」戸坂公民館『戸坂原爆の記録』)

 

肥田さんは書き記す。194586日広島城本丸跡にて、「広島陸軍は文字通り消滅」したと。