広島のあの日から12~朝鮮人兵士の被爆2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 原爆で壊滅した広島市の中心部で負傷者の救助、遺体の収容・火葬に当たった主要な部隊として陸軍船舶練習部第十教育隊がある。江田島の幸ノ浦に基地をおき、ベニヤ板製のモーターボートに魚雷を積んで突撃する水上特攻部隊だった。

 6日夜に市内に入った第十教育隊第42戦隊の半井良造小隊長は、7日7日朝早く、同じ42戦隊の小隊長である三本(みつもと)見習士官とともに担当地域の偵察に出かけた。

 

…焼跡を進んで行くとあちらこちらに二体、三体と焼死体が転がっているのが見られた。大分進んだ時だった。向うの方で「半井見習士カーン、半井見習士カーン」と呼ぶ声が聞こえた。三本が例の変なアクセントをつけて呼んでいるのだ。「どうしたーッ」と返事をする。「ちょっと来てくれーッ」と手を振って招いているので、私達は皆そちらへ向って走った。

三本らのいる所へ来て“ウァ!!”とばかりに立ちどまった。長さ一五メートルか二〇メートルもあったろうか、長い煉瓦塀がコンクリートの基礎を残してバッタリと倒れ、その下に二〇人以上の人がずらりと並んで死んでいるのだ。(半井良造「劫火」『広島原爆戦災誌』)

 

三本見習士官は律儀で真面目で、半井さんとはわりと仲が良かったという。見習士官は陸軍士官学校を卒業して少尉にすぐ任官する陸軍のエリートだ。そして「三本」さんは朝鮮人だった。

 どのような思いで必死に勉強して「大日本帝国軍人」となる道を選んだのか。最後は「海の藻屑」となることも覚悟していたであろうが、原爆で命拾いはした。しかし、その後の人生に原爆はどのようにのしかかっていったのだろうか。

 1969年に広島市が行った第十教育隊など陸軍船舶司令部の命令下にあった通称「暁部隊」の元隊員233人へのアンケート調査によると、出動中から下痢患者が続出し、復員後は倦怠感や白血球の減少に悩まされる人が多く、「原爆症」で亡くなった人も10人程度おられたとある。

 このとき「三本」さんと連絡が取れたかどうかはわからない。すぐに帰郷されたとすれば、待っていたのは祖国の分断だった。旧日本軍将校が生きていれば戦争に巻き込まれないはずはない。

 「三本」さんは故郷で原因不明の病(「原爆症」)に倒れたかもしれない。南北どちらかの軍隊に取られて銃火の中に姿を消したかもしれない。そして運よく戦火の中を生きのびたとしたら、周囲の人は旧日本軍士官だった人を暖かく迎えてくれただろうか。

 広島のあの日に限ってみても、私にはわからないことがどんどん増えてくる。