広島のあの日から9~医者を葬ったもの3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 岩竹博さんは8月6日の夕刻になって戸坂国民学校に置かれた広島第一陸軍病院戸坂分院にたどり着いた。しかしその日から8日まで、してもらったことといえば患部に消毒液の「赤チン」を塗ってもらったことと、水のように薄いお粥を一杯もらったことだけだった。

 戸坂分院の救護の状況については、そこで軍医として勤務していた肥田舜太郎さんが詳しく記している。

 

 ほとんどがヤケドに外傷を合併していた。衛生兵と婦人会の何人かが油をいれたバケツを片手にボロ切れに油をひたして、横たわっている患者のヤケドにぬりつけて歩いた。誰の智恵なのか大きな木の葉をぬらして創面を覆う者もいた。

私も加わって4人の軍医は応急処置に没頭した。数日前に要員だけが着任した戸坂分院には医療器械も薬品も一部しか届いていなかった。昼前、可部の倉庫からトラックで運ばれた医療材料ももう底をついていた。(肥田舜太郎「一軍医の記録」戸坂公民館『戸坂原爆の記録』1977)

 

お粥は、閃光に焼かれて顔が腫れ上がり口も開かなくなった負傷者のため、むすびを急きょ煮返したものだった。そして火傷にはただ食用油を塗るだけで、「赤チン」はまだましな方だったのだ。

8日、岩竹さんは県北の第一陸軍病院庄原分院に転送された。しかし、ここでもまともな治療はできなかった。

ある日看護婦さんが透明な液を患部に塗ってくれたのだが、よく見ると瓜の種が一粒ついている。後で聞いて、塗ってもらったのはキュウリの汁だということがわかったという。

岩竹さんはしだいに衰弱していった。助からないかもしれない。死ぬのなら自分の家で死にたい。8月23日、帰宅に自信のある者は帰宅してもよいとの許可が出た。

岩竹さんは備後府中の義兄の病院にたどり着いた。間一髪だった。翌日から、岩竹さんに急性放射線障害が現われたのだ。40度の高熱にうなされ、白血球数はわずか2000、髪の毛がごっそり抜けて、体は骸骨のようになった。

 

枕元で泣き叫ぶ声にふと気をとり戻すと、今心臓が止まったのだと云う。顔の皮は痙攣し、眼球はつり上り、チアノーゼを来し、苦悶の表情をしたらしい…(岩竹博「広島被爆軍医予備員の記録」重松静馬『重松日記』筑摩書房2001)

 

しかし岩竹さんは助かった。義兄の病院で手厚い看護をしてもらったからかもしれないが、そもそも即死しても不思議ではないほどの至近距離で被爆して、8月24日まで急性放射線障害がひどくなかったのが不思議である。そういうこともあるのだ。

後日、基町の広島第二陸軍病院営庭で被爆した軍医予備員130名あまりのうち、生存者は岩竹さんを含め3人だけだということが知らされた。

岩竹さんは思う。どうして130名もの医者を何ら社会のために役たたせることなく「犬死」させてしまったのかと。

 

斯んなものが史上嘗てあったであろうか。戦争とは斯んな物であると簡単に片附けてよいのか。(岩竹博 同上)

 

岩竹さんの怒りは戦争そのものに向けられる。