吉川清さんによると、原爆傷害者更生会が産声を上げてわずか2か月で、吉川清夫妻の仮住まいであり原爆傷害者更生会の会合場所である倉庫から追い出されてしまった。まだ占領下にあり、東西冷戦激化の中で日本国内ではレッド・パージが吹き荒れていた。被爆者が集まって語り合うことですら警察は目を光らせていたのだ。
吉川さんは知己の谷本清牧師をたよった。ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』で取り上げられて一躍有名となり、谷本牧師は1948年から1951年にかけて長期間アメリカを講演してまわっていた。そんな牧師の教会であれば警察も誰も邪魔をする者はいなかったことだろう。
30名ほどの被爆者が流川教会に集まるようになってすぐ、吉川さんは過労でひと月あまり床に臥すこととなった。その間谷本牧師は教会で被爆者にバイブルを講義し、ともに賛美歌を歌い礼拝をおこなった。牧師としては当然のことであったかもしれないが、反発して離れていく人も出た。
残ったのは若い女性たち。谷本牧師は、この女性たちの心まで傷つけているケロイドを何とかして治してあげたいと動き始めた。
谷本清牧師は1940年にアメリカアトランタのエモリー大学神学院を卒業している。何か事を起こそうとすれば寄付を募る。そのために宣伝は欠かせない。アメリカで学んだ谷本牧師にとって、それらは当然のことではなかったろうか。
1952年5月、当時流行作家だった真杉静枝が原爆ドームのすぐ側にあった吉川清さんのバラックを訪ねてきた。谷本牧師の紹介で出会ったケロイドのある娘さんたちを東京に招きたい、吉川さんにも同行してほしいということだった。
広島市流川教会の谷本清牧師は「広島でいま一番問題なのは、原爆で傷ついた娘たちのことだ」と話し、三人の被爆女性を連れて広島駅へ見送りに行った。彼女らの顔に残る痛々しいケロイドを見て、真杉さんは涙を流した。(中国新聞社『炎の日から20年』未来社1966)
6月、谷本牧師が引率する9名の若い被爆女性と吉川清さんは東京に向かった。新聞は「原爆乙女上京」と大きく取り上げた。