『ヒロシマ日記』7~解剖 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 8月26日、広島逓信病院で、亡くなった被爆者の初めての病理解剖が行われた。蜂谷院長立会いのもと腹部が開かれると腹腔内に血液がたまっているのが見えた。皮膚だけでなく体内の臓器や粘膜からも出血していたのだ。

 

 私は死体解剖を見て痛んだゆえんがわかった。胃腸や肝臓腹膜の粘膜下出血斑をみて、斑点は体の表面ばかりではない、五臓六腑体中どこでもでていることがわかった。私は解剖を見学して恐るべきは斑点だ、斑点が体の中の主要部へただ一個できても最後だと思った。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)

 

 そして体内にたまった血液が時間がたっても凝固していないことから、白血球だけでなく血小板も検査しなければならないと院長は気がついた。

 8月27日、蜂谷院長の先輩で広島医学専門学校(現 広島大学医学部)教授の玉川忠太が広島逓信病院にやってきた。玉川は病理解剖の専門家である。翌日から10月13日まで、玉川教授は広島逓信病院裏庭のバラックで日々病理解剖に没頭した。

 その結果、やはり出血斑は血小板の減少が一因であるとわかってきた。そうした人たちの死因は大量の出血である。

 では白血球や血小板の減少という造血機能障害にどのような治療法があるのだろうか。蜂谷院長は9月11日の産経新聞に「原子爆弾と原子爆弾症」を寄稿し、その中で次のように書いている。

 

 治療法としては造血組織を刺激し、鼓舞し、足りないものを補給しさえすればよい。(中略)爆撃当日広島にいた人は必ず一度医師の健康診断を受け、白血球が減っておれば正常に戻るまで静養し、腹いっぱい御馳走を食べる必要がある。(蜂谷道彦 同上)

 

 玉川忠太の門下生で当時岡山医科大学の学生だった杉原芳夫は9月上旬に学生救援隊の一員として広島逓信病院に入った。仕事は病理解剖の手伝いや患者の血液検査であった。

 

 あるとき私の前に立った婦人の白血球は二五〇〇以下におちていました。その蒼白な顔には点々と小出血斑が見られました。

 「体をできるだけ安静にして、なるべく肉や魚、それに新鮮な野菜と果物をたっぷり食べねばいけません」

 「そんなことを言われても、私が働かなかったら、誰がいったい子供たちに食べさせてやるのですか」

 小さいが怒ったような声に、私は黙り込みました。(杉原芳夫「病理学者の怒り」山代巴編『この世界の片隅で』岩波新書1965)

 

 「原爆症」の原因が見えてきたといっても、被爆者は休むことも食べることも難しかった。