1928年生まれの石田明さんは修道中学4年、16歳の時に志願して陸軍少年航空兵となった。帰省して武運長久を祈るため兄と宮島に行く途中で被爆した。二人とも即死は免れたが、9月になって兄が死に、すでに脱毛、下痢、嘔吐に苦しんでいた明さんも意識を失った。明さんが生き永らえたのは奇跡としか言いようがない。その代わり、子どもの看護に命をすり減らして母親が急逝した。
明さんは1946年2月に修道中学に復学し、そして3月に卒業した。負けるはずのない戦いに負け、おめおめと生き残って、学校に戻って来たのだ。心の中はポッカリと穴が開き、そこからドロドロとした憤りが吹き出していた。
明さんが入隊する前に担任だった三谷先生は歴史の先生だった。
先生は、これまで教科書どおりに教えてきた天孫降臨とか、神国日本とかの歴史はみなつくり話であること、したがって、これまでの歴史の教科書に書かれていなかったことに真実があることなど、頬を紅潮させてしゃべりました。(石田明『被爆教師』一ツ橋書房1976)
明さんは激しく反発した。また嘘を教えるのかと。天皇を否定するとは何事かと。
家に押しかけた明さんに三谷先生は言った。
「石田、すまんと思うよ。わしらがそういうことをしたり顔で教えてきたから、きみらはいまでもそれを信じているんじゃ。これからは本当のことをいうけえ、勉強せいよ……」(石田明 同上)
三谷先生はおそらく学生のころはマルクス主義に惹かれたのだろう。しかし戦時下では神州不滅を鼓吹した。その結果が目の前にいる石田明さんだった。
先生に言えることはただ一つ、「人間一生勉強じゃ」だった。
人類は、そういう、みえない暗闇とたたかい、そこに光をあてて、真理を解きあかしながら、民主主義にむかって進歩してきたんじゃ。(石田明 同上)
自分たちも不断に真理を探求していかなければいけないということだろう。明さんはだんだんと三谷先生に惹かれていった。
三谷先生は1949年のレッド・パージで職を追われ、栄養失調で亡くなった。もう二度と、節を曲げることだけはしたくなかったのだろうか。
三谷先生は戦時下の自分のあり様を糺され、自分を省みるところから前に向って歩いて行った。
もう戦争はごめんだと立ち上がる時、かつて自分は戦争を推し進めていく側にいた、少なくとも、何も言わず黙っていたとあれば、そのことを自ら問い直す必要があるのではなかろうか。
省みるのは、前に進むため。