闘いの相手9~峠三吉「河のある風景」1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 朝鮮戦争反対、原爆廃棄を呼び掛ける峠三吉の『原爆詩集』の中で、「河のある風景」は異質な詩だ。

 

「河のある風景」

 

すでに落日は都市に冷い

都市は入江の奥に 橋を爪立たせてひそまる

夕昏れる住居の稀薄のなかに

時を喪った秋天のかけらを崩して

河流は 背中をそそけだてる

 

失われた山脈は みなかみに雪をかずいて眠る

雪の刃は遠くから生活の眉間に光をあてる

妻よ 今宵もまた冬物のしたくを嘆くか

枯れた菊は 花瓶のプロムナードにまつわり

生れる子供を夢みたおれたちの祭もすぎた

 

眼を閉じて腕をひらけば 河岸の風の中に

白骨を地ならした此の都市の上に

おれたちも

生きた 墓標

 

燃えあがる焔は波の面に

くだけ落ちるひびきは解放御料の山襞に

そして

落日はすでに動かず

河流は そうそうと風に波立つ

 
 この詩は1950年12月15日発行の『われらの詩』第10号に掲載された。
 1950年5月1日メーデーに売り出された『反戦詩歌集第一集』に「よびかけ」を載せ、6月9日発行の新聞『平和戦線』には「八月六日」を書いた。8月6日に配った『われらの詩』第8号には「ほんとうのこと」(『原爆詩集』では「ちいさい子」)を発表し、原爆ドームそばで開催された「原爆の図」展覧会に合わせ10月9日に開かれた丸木位里・赤松俊子(丸木俊)らとの座談会で「墓標」を朗読した。
 その間の事であろう。増岡敏和さんは次のように証言している。
 

 かれ自身の生活がうたわれた作品がないと、あの当時若いみんなからいわれていて、なんとかそれにこたえようとかれが努力をしていた…(増岡敏和『八月の詩人』東邦出版社1970)

 
 しかし発表された「河のある風景」に増岡さんたちは不満だった。『八月の詩人』の中で「高原詩人の会」の中野光也という人の評を紹介している。「…自分の生活を、沈滞した暗い、悲哀に満ちたものにうたった」詩だという。
 要するに、元気が出ない、敗北主義とでも言いたいのだろう。
 しかし、それで片づけていいのだろうか。
 「河のある風景」は1951年9月20日のガリ版刷り『原爆詩集』には入らなかったが、1952年6月発行の青木文庫版『原爆詩集』には載せた。増岡さんにはそれがどうしても理解できないようである。