朝鮮戦争反対、原爆廃棄を呼び掛ける峠三吉の『原爆詩集』の中で、「河のある風景」は異質な詩だ。
「河のある風景」
すでに落日は都市に冷い
都市は入江の奥に 橋を爪立たせてひそまる
夕昏れる住居の稀薄のなかに
時を喪った秋天のかけらを崩して
河流は 背中をそそけだてる
失われた山脈は みなかみに雪をかずいて眠る
雪の刃は遠くから生活の眉間に光をあてる
妻よ 今宵もまた冬物のしたくを嘆くか
枯れた菊は 花瓶のプロムナードにまつわり
生れる子供を夢みたおれたちの祭もすぎた
眼を閉じて腕をひらけば 河岸の風の中に
白骨を地ならした此の都市の上に
おれたちも
生きた 墓標
燃えあがる焔は波の面に
くだけ落ちるひびきは解放御料の山襞に
そして
落日はすでに動かず
河流は そうそうと風に波立つ
この詩は1950年12月15日発行の『われらの詩』第10号に掲載された。
1950年5月1日メーデーに売り出された『反戦詩歌集第一集』に「よびかけ」を載せ、6月9日発行の新聞『平和戦線』には「八月六日」を書いた。8月6日に配った『われらの詩』第8号には「ほんとうのこと」(『原爆詩集』では「ちいさい子」)を発表し、原爆ドームそばで開催された「原爆の図」展覧会に合わせ10月9日に開かれた丸木位里・赤松俊子(丸木俊)らとの座談会で「墓標」を朗読した。
その間の事であろう。増岡敏和さんは次のように証言している。
かれ自身の生活がうたわれた作品がないと、あの当時若いみんなからいわれていて、なんとかそれにこたえようとかれが努力をしていた…(増岡敏和『八月の詩人』東邦出版社1970)
しかし発表された「河のある風景」に増岡さんたちは不満だった。『八月の詩人』の中で「高原詩人の会」の中野光也という人の評を紹介している。「…自分の生活を、沈滞した暗い、悲哀に満ちたものにうたった」詩だという。
要するに、元気が出ない、敗北主義とでも言いたいのだろう。
しかし、それで片づけていいのだろうか。
「河のある風景」は1951年9月20日のガリ版刷り『原爆詩集』には入らなかったが、1952年6月発行の青木文庫版『原爆詩集』には載せた。増岡さんにはそれがどうしても理解できないようである。