1950年7月1日、当時21歳の私の父が編集長を務める村の青年団の機関誌『青年』創刊号が発行された。父は「逆境は恩寵なり」という一文も寄せ、その中に被爆体験も少し書いている。
その眞崎君もまもなく息をひきとって行った。
「あゝ戦争とはこんなに悲惨なものであり人間を不幸にするものであろうか我々は何のためにこんな事をしなければならなかったのか」
この言葉は当時の誰もがつぶやいた事であろう…
(精舎法雄「逆境は恩寵なり」都谷中央青年団文化部『青年』1950.7)
父はその文の中で朝鮮戦争を憂い、何とかして戦争のない世界にしていこうと訴えている。
中国新聞ホームページのデータベース「ヒロシマの記録」によると、1949年4月6日、アメリカのトルーマン大統領は「原子爆弾の使用を再び決定することをためらわない」と発言した。
一方ソ連は8月29日に最初の核実験を行い、原爆独占に敗れたアメリカは水素爆弾の開発に着手する。
広島では10月に平和擁護広島大会が開かれ、緊急動議によって「原子爆弾の廃棄」の要求が決議された。占領下の広島で初めての原爆反対のアピールだった。大会議長団の中には峠三吉もいた。
1950年3月には「原子兵器の絶対禁止」を要求し、最初に使用する政府は戦争犯罪者だと訴えるストックホルムアピールが発せられ、全世界で賛同の署名が集まった。
5月10日、トルーマン大統領は反論する。
第二次大戦で日本人に対し原子爆弾を使用したのは米軍の日本上陸を避けるためであった。この上陸が行われていたら20万人の米国人の生命が犠牲になっただろう。私はこれら米の青年および日本軍兵士の生命を救う最上の方法は原子爆弾を投下して戦争を終わらせることだと決心しこれを実行した。私はやむを得ない場合、再び同様の措置をとるだろう。(中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター「ヒロシマの記録」より)
しかし3発目の原爆投下が広島・長崎と異なるのは、それで終わりではないということである。
1950/6/30
英の哲学者バートランド・ラッセル氏が「もしソ連が朝鮮内乱を機に戦争に入れば第三次世界大戦は10年続くだろう」(中国新聞 同上)
その6月、広島平和協会は第5回平和祭の準備を始めた。スローガンは「原爆禁止」。平和宣言、記念植樹、音楽会、原爆体験記の出版…。
同じく6月、新聞『平和戦線』に原爆の惨禍を広く知らせる峠三吉の詩「八月六日」が載せられた。
6月25日、ついに朝鮮戦争が始まった。30日、アメリカは全面介入を決定し、7月8日にはマッカーサーが国連軍最高司令官に任命された。