峠三吉の『原爆詩集』には、注意深く言葉を選んだのであろう、進駐軍とか占領政策、アメリカ、帝国主義といった言葉は見当たらない。詩「その日はいつか」の中に次の一節がある。
われわれはこの屈辱に耐えねばならぬ、
いついつまでも耐えねばならぬ、
ジープに轢かれた子供の上に吹雪がかかる夕べも耐え
外国製の鉄甲とピストルに
日本の青春の血潮が噴きあがる五月にも耐え
自由が鎖につながれ
この国が無期限にれい属の繩目をうける日にも耐え
(峠三吉「その日はいつか」部分『原爆詩集』)
同じ事件かどうかはわからないが、正田篠枝に「進駐軍」という詩がある。
「進駐軍」
宮島口駅前の 床屋のところの 観光道路で
幼ない 女児が
ジープに ひき殺されました
その子も 母親も 知った仲なので
おくやみに ゆきました
しく しく 泣きながら 母親が
道路ではなく
ヤダリで遊んでいたんだっと いいます
相手が 進駐軍なのですから
どうにも ならないのだそうです
殺され損で ありますわいっ と 若い父親は
握りこぶしを膝に置き
蒼ざめ 沈んで おりました
(※ヤダリ 家の周り)
「進駐軍」は1962年に出版された正田篠枝の『耳鳴りー被爆歌人の手記』に収められている。峠三吉の「その日はいつか」は1952年に出版された青木文庫版の『原爆詩集』で追加されている。二つの詩の10年の時間差は、やはり大きいというべきだろう。
『原爆詩集』の1951年6月1日付の「あとがき」の中で三吉は次のように述べている。
…私が唯このように平和えのねがいを詩にうたつているというだけの事でいかに人間としての基本的な自由をまで奪はれねばならぬごとく時代が逆行しつつあるかということである。(峠三吉「あとがき」部分『原爆詩集』)
峠三吉は原爆とはどのようなものであったかを伝えるだけでなく、逆行する時代と立ち向かう中で平和を訴えているのだ。