ヒロシマの8月15日~峠三吉の場合3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 後に広島平和記念資料館の館長にもなった高橋昭博さんは、中広にあった広島市立中学で被爆した。当時中学2年生、14歳だった。

 大火傷を負った高橋さんは一命はとりとめたものの病床生活は長く苦しかった。その間、新型爆弾で多くの命が奪われたことや日本が戦争に負けてしまったことを知る。

 

 しかも日本の戦争は軍部の専横により起こされたことなど、十四歳の私には、あまりにも衝撃的な事実が知らされた。「東条が憎い!」と私は初めてそう思った。(高橋昭博『ヒロシマ、ひとりからの出発』ちくまぶっくす1978)

 
 「真剣であったのは将兵と若き学徒と素質の良い挺身隊」と「メモ 覚え書 感想」にしたためていた峠三吉も軍部に裏切られる日が来た。9月16日のことである。
 
 ラヂオニュース中にて比島に於ける日本将兵の人民又婦女子らへの聞くに耐へぬ惨虐暴行行為をこく明に放送する。胸間苦悶、ラヂオを叩き毀したく覚ゆ(峠三吉「被爆日記」)
 
 2016年1月、天皇皇后はフィリピンを訪問され、次のようなお言葉を述べられた。
 
 …マニラは砲爆撃や市街戦によって破壊される。日本軍の戦死1万2000、米軍は同1000、なのに民間人の死者は10万人を超えたといわれるマニラの戦いだった▲「マニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜(むこ)のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」。天皇、皇后両陛下の比訪問にあたり天皇陛下は「おことば」でとくにこう述べられた。(「毎日新聞」2016.1.27)
 
 一橋大学大学院の中野聡さんはフィリピン市民の惨殺について次のように述べている。
 
 …この過程で――背後の敵となる恐れがあると見なした――住民を日本軍は大量に殺戮した。さらに米軍が完全に包囲するなか、イントラムーロス城内では成人男性の大多数が日本軍により逮捕拘留・殺害され、中立国スペイン国籍の聖職者・民間人も虐殺された。エルミタ・マラテ地区でも住民が日本軍の銃剣や機銃掃射で殺戮され続け、これら3地区全てにおいて婦女子が組織的に強姦された。これに対して第37歩兵師団を中心とする米軍は、トーチカや建物からの狙撃による兵員の損害を最小限に抑えるために重砲火による事実上の無差別砲撃で街区を次々と破壊した。近年の戦史研究は、民間被害の6割を日本軍による殺戮、4割を米軍の重砲火による死亡と推定している。(中野聡「マニラ戦の実像と記憶」2016.1.26web公開版)
 
 高貴な精神は末端の兵士にまでは浸透していなかったのか、それとも日本民族そのものが実は野蛮だったのか、厳然たる事実を前に峠三吉の心は千々に乱れるのだった。