「夕凪の街桜の国」から~看病3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 『広島原爆戦災誌』によると、安佐北区可部の勝円寺に収容された被爆者は128人であったという。その中に、後に「原爆一号」と呼ばれた吉川清(きっかわきよし)さんと妻の生美(いきみ)さんがいた。

 吉川さんは8月6日の朝、夜勤明けで自宅に帰り、玄関に足を一歩踏み入れたところで被爆した。自宅は爆心地から約1.5kmの白島にあり、吉川さんは肩から背中、両腕にかけて皮膚がぼろきれのように垂れ下がる大火傷を負った。妻の生美さんは家の下敷きになって背中一面から血が吹き出ていた。

 吉川夫妻がトラックで勝円寺に運び込まれたのは7日のことだった。清さんの傷口はすでに化膿し始め体はすぐに膿だらけになった。

 

 繃帯交換は一大事だった。婦人会の人たちが、私を起こそうとするのだが、全身のどこにも手をかける所がない程の傷であったし、私には自力で起き上がる力も残っていなかった。(吉川清『「原爆一号」といわれて』ちくまぶっくす1981)

 
 清さんも生美さんも下痢に苦しみ、清さんには脱毛、口や鼻からの出血、そして血の斑点も現れた。体中を蛆虫が這いまわった。
 二人は日々衰弱していったが、それでも何とか持ちこたえて9月になった。熱は少し下がり、食欲もぼつぼつ出てきたが、火傷と化膿は一向に良くならなかった。治療に欠かすことの出来ないマーキュロ液も食用油も底をついた。
 
 婦人会の人たちは、火傷や化膿どめにはつわぶきの葉がよく効くといって、患部にはってくれた。また、キュウリの汁がよいといっては、おろし金ですって傷口にぬってくれた。(吉川清 同上)
 
 吉川夫妻が何とか動けるようになって勝円寺を後にしたのは10月16日だった。勝円寺では収容された128人のうち87人が亡くなり、根の谷川の河原や学校の校庭で火葬にされたという。吉川夫妻にとって2カ月以上もの長い間看病してもらった婦人会の人たちの厚情は終生忘れることの出来ないものだった。
 ところで、看病するのも実は命がけであったことが後になってわかってきた。看病している間は誰も本当のことを知らなかったのだ。