「夕凪の街桜の国」で、平野皆実は打越から愛を告白されるが、その時皆実の脳裏にはあの日の惨状が浮かび、自分だけが幸せになるわけにはいかないと打越を拒絶する。
広島一中1年生約300名は、半数が爆心地から1.1kmほど離れた雑魚場町で建物疎開作業をしていて原爆の閃光に焼かれ、残りの半数は待機していた校舎が爆風で倒壊してその下敷きになった。
一中に復学できた生徒はわずかに18名だった。その中のひとり寄田享さんはご自身のホームページに当時の思いを次のように書き残しておられる。
運命のいたずらとはいえ、私共だけが生き残ってしまったのが悪い様に思われ、遺族の方々に顔を合わせるのがつらく…(寄田享ホームページ「核のない21世紀を!被爆体験を通じて」)
同じく原邦彦さんは一中の被爆体験記録である『ゆうかりの友』のはしがきで次のように書かれている。
生き残った生徒達は、亡くなられた生徒の御遺族にお会いするのがつらくて、常に避ける様にしていた…(広島県立一中被爆生徒の会『ゆうかりの友』)
会えば、目が語っているのだろう。なぜ、うちの子が死んで、あなたは生きているのかと。
「夕凪の街桜の国」でも年老いて寝たきりのフジミに語らせている。
ごめんねえ翠はまだ帰って来んのよ
…ほいで?
あんたあどこへおりんさったん?
なんであんたァ助かったん?
(こうの史代『夕凪の街桜の国』双葉社)
皆実は翌日、打越に語りかける。
…教えて下さい
うちはこの世におってもええんじゃと
教えて下さい
(こうの史代『夕凪の街桜の国』)
皆実は自身の被爆体験をほとんど語っていない。語ろうとした矢先に倒れてしまった。
語ってないのは、大したことなかったからではなく、語ろうにも語れないほど重たいものがあるからだ。
このままここにいてはだめだ。皆んなの逃げる方向にとぼとぼついて行った。あちらこちらで助けを求める叫び声。コンクリートの壁に下半身下敷になって泣き叫んでいる人。家屋の下の方から「助けてくれ、助けてくれ」という叫び声。しかし、誰もそんなことには無頓着で走り過ぎていってしまう。(小田直子「被爆体験について」国立広島原爆死没者追悼平和祈念館)
皆実は「何人見殺しにしたかわからない」と心の中で呟く。当時、皆実は13歳、女学校2年生のはずだ。
塀の下の級友に今助けを呼んでくると言ってそれきり戻れなかった。(こうの史代『夕凪の街桜の国』)
塀の下の友を置き去りにせざるをえなかった皆実のような人たちは大勢いた。その人たちの心の傷、体の傷がどれほど重たいものか、「塀の下」を手掛かりに体験談を紐解き思いを寄せてみたい。