爆心地から3kmちょっと離れたところにあった陸軍共済病院は建物の被害こそあったものの、医師・看護婦、医薬品等はそろっていて、宇都信さんの妻は他の病院や救護所に運ばれた人からは羨まれるに違いないほどの手厚い治療を受けた。とはいうものの、放射線障害の特効薬があるわけではない。
8月の終わりごろか、宇都さんの妻の白血球数の下降は一向に止まらなかった。やがて全身に出血の発疹が現れ、疼痛を訴えて苦悶する妻に、宇都さんは臨終の近いことを覚悟した。
必死の一夜は明けた。白血球数は四百となり、妻は満身の疼痛に悶えながらも意識は明瞭であるが、視力が全く消えて、私や子供が見えないといい出した。私は妻の苦しみをやわらげて安らかに永眠させる術はないものかと一心不乱に念じ詰めた。
ふと止血剤が私の脳裏を掠め、トロンボゲンの名が浮んだ。(宇都信「奇蹟に生きる妻」『原爆体験記』)
宇都さん自身、戦後数年たってもその医学的根拠が分からないのだが、トロンボゲンは効いた。妻はその注射一本で体が楽になり、治療を続けると白血球数は増加に転じ、皮下出血は消え、顔面の膿も出なくなっていった。宇都さんの妻が退院したのは9月26日であった。
宇都さんの妻の回復は例外中の例外、奇跡としか言いようがない。あの日、宇都さんの妻と同じ場所にいた数十名の女性はほとんどその日のうちに死んだという。病院とは、救護所とは名ばかりで、火傷の治療に赤チンをつけるのが精一杯、まして放射線障害など見たことも聞いたこともなかった。手の打ちようがなかった。
『原爆体験記』が朝日選書として刊行された1965年当時、宇都さんご夫妻は健在であると本書中に注記されている。しかし、宇都さんの妻には顔、首、肩にケロイドが残った。また別の苦しみがうまれた。