前のハンターハンターの記事では書き損ねたことがたくさんありました。
今の私の愛読書である「毒になる親」に書いてあった、「言葉にされないルール」により、毒親を持つ子どもは一生操られ、苦しむというようなことが書いてあったので、今日偶然アニメで見たシーンに見入ってしまった。
「キルアは自分の足で戻ったんだよ」
「それは操られていたからだ。本当のキルアの意思じゃない」
このシーンは、リアルタイムでジャンプで漫画として見ていたのに、その時はキルアの家庭が殺し屋なんて現実みのない設定も手伝って、自分の家庭に重ねて見たりはしなかった。
でも、今はゴンが言う「キルアの意思でなく、お前たちに操られていた」という言葉の意味がわかる。
最初にそのやり取りを見た時は、どうかすると、「ゴンってお節介すぎない?」って思っていた。
だって私にはそんなこと言ってくれる友人はいなかったし、友人というものは、そこまで踏み込むようなものではないと思っていたからだ。
…最初に言いたかったことと微妙に話がずれてきそうになっているので戻すとすると、私が言いたいのは、「自分の意思で行動していると本人でさえ思っているのに、実は無意識の親のコントロールによって動かされていることが多々ある」ということなんです。
私が本当に望んでそれを選んでいるのかどうかを、親のコントロールはいつでもあいまいにさせる。
親の望むように生きてやるかと思っても、いつでも、親の価値観、倫理観に縛られている。
自分の極端な性質、キレたら手がつけられないほど暴れるところ、他にも、親から受け継いだ嫌な部分は数え切れない。
親でなく、私の考え方、判断で生きていきたい。
親が「それは間違っている」と言って、私が親の意見に従わない場合、悪人のように扱われる、この流れからして既におかしいのだ。
私は親と違っていいのだ。
親の気に入るようになど生きなくていい。
言葉にするのは簡単なのに。
犯罪者になったわけでもないのに親が私に落胆したりするのが悲しくなってしまい、結局は親の望みからはみ出さないようなことしか言えない、できない。
どうして私はひどいことを言われたりされたりしても、親を悲しませたり、落胆させたりすることに罪悪感を持たねばならないのだろう。
親は、少なくとも母は、私に対して言いたい放題なのに、不公平だと思う。
不公平だと思う私がおかしいのだろうか?
今の私の愛読書である「毒になる親」に書いてあった、「言葉にされないルール」により、毒親を持つ子どもは一生操られ、苦しむというようなことが書いてあったので、今日偶然アニメで見たシーンに見入ってしまった。
「キルアは自分の足で戻ったんだよ」
「それは操られていたからだ。本当のキルアの意思じゃない」
このシーンは、リアルタイムでジャンプで漫画として見ていたのに、その時はキルアの家庭が殺し屋なんて現実みのない設定も手伝って、自分の家庭に重ねて見たりはしなかった。
でも、今はゴンが言う「キルアの意思でなく、お前たちに操られていた」という言葉の意味がわかる。
最初にそのやり取りを見た時は、どうかすると、「ゴンってお節介すぎない?」って思っていた。
だって私にはそんなこと言ってくれる友人はいなかったし、友人というものは、そこまで踏み込むようなものではないと思っていたからだ。
…最初に言いたかったことと微妙に話がずれてきそうになっているので戻すとすると、私が言いたいのは、「自分の意思で行動していると本人でさえ思っているのに、実は無意識の親のコントロールによって動かされていることが多々ある」ということなんです。
私が本当に望んでそれを選んでいるのかどうかを、親のコントロールはいつでもあいまいにさせる。
親の望むように生きてやるかと思っても、いつでも、親の価値観、倫理観に縛られている。
自分の極端な性質、キレたら手がつけられないほど暴れるところ、他にも、親から受け継いだ嫌な部分は数え切れない。
親でなく、私の考え方、判断で生きていきたい。
親が「それは間違っている」と言って、私が親の意見に従わない場合、悪人のように扱われる、この流れからして既におかしいのだ。
私は親と違っていいのだ。
親の気に入るようになど生きなくていい。
言葉にするのは簡単なのに。
犯罪者になったわけでもないのに親が私に落胆したりするのが悲しくなってしまい、結局は親の望みからはみ出さないようなことしか言えない、できない。
どうして私はひどいことを言われたりされたりしても、親を悲しませたり、落胆させたりすることに罪悪感を持たねばならないのだろう。
親は、少なくとも母は、私に対して言いたい放題なのに、不公平だと思う。
不公平だと思う私がおかしいのだろうか?