■ 第二章 人間観、意志論、イドラ論
B・二【人間観、意志論、イドラ論(ベーコン)】
一 巧妙な詭弁、しつこい想像あるいは印象、激烈な情念と感情の三つのものによって、意志 は理性による支配から妨害されている。(B・二・一 )どうすれば、意志を理性の命ずる方向にいっそうよく動かすことができるだろうか。一・一 論理学の力をかりて巧妙な詭弁を見破り、理性を確実にする。(B・二・一)
一・二 ところが、想像はつねに意志の運動に先だつ。(B・二・二)
一・三 したがって、意志による判定も、能弁によって行われる説得や、事物の真の
すがたを彩り偽装するような、説得に似た性質の印象づけによって、主として
想像力に訴えなければ、意志を動かすことはできない。(B・二・二)
一・四 この際、感情は現在だけを見、理性は未来と時間の全体とを見るという点で
異なり、そしてそれゆえ、現在のほうがいっそう多く想像力をみたすので、
理性はふつう負かされてしまう。(B・二・一 )
一・五 そこで、雄弁と説得との力が、未来の遠いものを現在のように見えさせてし
まえば、そのときは、想像力の寝がえりで、理性が勝つのである(B・二・一)。
二 このように、どのようにして感情をたがいに対立させあい、他方によって一方を制するか についての認識は、道徳と政治に関することがらには特別に役だつ(B・二・三)。
三 ところで、理性の及ばないところにおける意志は、どのように自らを決定するのか。
三・一 感情そのものにも理性と同じように、つねに善への欲求がある。(B・二・一)
これが、解決のための手掛かりとして、私たちに与えられている。
三・二 しかるに、理性の及ばないところにおいて、信仰と宗教は、比喩と象徴と
たとえ話とまぼろしと夢によって、想像力を通じて意志に近づく。(B・二・二)
そしてそれは、小さくない権威そのものを付与されるか、そうっとそれを僭称
している(B・二・一)。
三・三 事物の本性が人間の精神に満足を与えないような場合に、想像力が、人間の霊
の要求に応じて自由に、より豊かな偉大さと、厳格な善と、完全な多様性とを表
現するところの、極度に無拘束な学問の部門がある。詩である。(B・二・四)
そして、これが第二の手掛かりである。
三・四 私は、この極度に無拘束な学問の部門の一例として、「博物誌」のあとに、
私が理想と考えるところの一つの法体系、あるいは国家の最良の様態、ないしは
型を記述してみたいと思う。これは、すべてを模倣することは到底不可能と思わ
れるほど壮大かつ高尚なものではあるが、人間の力で実現可能なものとして、
構想されるものである。(B・二・五)
四 これが全体の構想であるが、まずは予告どおり、人間の知性を捕えてしまって、そこに深 く根を下ろしている「イドラ」および偽りの概念から解明していこう。前もって知り自分を守 らなければ、真理への道を開くのは困難になろうから( B・二・六)。
四・一 種族のイドラ(B・二・六・一)
・種族のイドラの例(B・二・六・一・一 ~四)
四・二 洞窟のイドラ(B・二・六・二)
・人物についての認識(B・二・六・二・ 一)
・意志と欲望に影響を及ぼしうるもので、われわれが自由に支配できるもの
がある(B・二・六・二・二)。
四・三 市場のイドラ(B・二・六・三)
・すべての政治論の中で、噂ほど扱われる価値のある題目はない。
(B・二・六・三・一)
四・四 劇場のイドラ(B・二・六・四)
・劇場のイドラの例(B・二・六・四・一 ~四)
・古代の哲学の集録の効用(B・二・六・ 四・五)
五 役に立つ一覧表の例など
・異常な自然の歴史(B・二・七)
・問題の一覧表の効用(B・二・八)
・誤りの一覧表の効用(B・二・九)
例:学問の病気や不健康な状態を識別する(参照:B・ 三 以下)
・記憶術(B・二・一〇)
・知識の伝達法(B・二・一一)
・反乱の原因と動機、反乱の一般的予防法(参照:B・四 以下)
・ぺてんとよこしまな手管の研究(参照:B・五 以 下)
B・二・一【巧妙な詭弁、しつこい想像あるいは印象、激烈な情念と感情の三つのものに よって、意志は理性による支配から妨害されている。意志を理性の命ずる方向に動かすにあ たっては、まず、論理学の力をかりて巧妙な詭弁を見破り、理性を確実にする。ところで、感 情そのものにも、理性と同じように、つねに、善への欲求があるが、感情は現在だけを見、理 性は未来と時間の全体とを見るという点で異なり、そしてそれゆえ、現在のほうがいっそう多 く想像力をみたすので、理性はふつう負かされてしまう。そこで、雄弁と説得との力が、未来 の遠いものを現在のように見えさせてしまえば、そのときは、想像力の寝がえりで、理性が勝 つのである。】
「弁論術の任務と役目は、意志を理性の命ずる方向にいっそうよく動かすために、理性の命 令を想像力にうけいれさせることである。現に、理性はその支配を三つのものによって妨害さ れているからである。三つのものとは、論理学に関係のあるわなあるいは詭弁と、弁論術に関 係のある想像あるいは印象と、道徳哲学に関係のある情念と感情とである。そして他人との折 衝の場合、人間は巧妙な手としつこい要求と激烈さとによって左右されるように、内心におけ る折衝の場合も、人間は、まちがった推論によって根底をくずされ、印象あるいは所見にしつ こくまといつかれ、情念のために我を忘れさせられる。といっても、人間の本性はそれほどで きそこなってはいないので、あの三つの能力と技術は、理性をかき乱して、それを確立し高め ないような力をもっているわけではない。というのは、論理学の目的は、立論の形式を教えて 理性を確実にすることであって、理性をわなにかけることではなく、道徳哲学の目的も、感情 を理性に従わせることであって、理性の領域を侵させることではなく、弁論術の目的も、想像 力をみたして理性を補佐することであるからである。」「なおまた、もしも感情それ自身が御しやすくて、理性に従順なものであったら、意志に対 する説得と巧言などを用いる必要はたいしてなく、ただの命題と証明だけで十分であろうが、 しかし、感情がたえずむほんをおこし扇動する、
「よいほうの道はわかっており、そのほうがよいと思う。
しかし、わたしはわるいほうの道をたどる」〔オウィディウス『変身譚』七の二〇〕
のをみると、もし説得の雄弁がうまくやって、想像力を感情の側からこちらの味方に引き入 れ、理性と想像力との同盟を結んで、感情と対抗しなければ、理性は捕虜と奴隷になるであろ う。というのは、感情そのものにも、理性と同じように、つねに、善への欲求があるが、感情 は現在だけを見、理性は未来と時間の全体とを見るという点で異なり、そしてそれゆえ、現在 のほうがいっそう多く想像力をみたすので、理性はふつう負かされてしまうからである。しか し、雄弁と説得との力が未来の遠いものを、現在のように見えさせてしまえば、そのときは、 想像力の寝がえりで、理性が勝つのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一八・二、一八・四、 pp.249-252、服部英次郎、多田英次)
(索引:論理学、弁論術、道徳哲学)
B・二・二【想像はつねに意志の運動に先だつ。したがって、理性による判定が意志によ り実行に移されるのも、能弁によって行われる説得や、事物の真のすがたを彩り偽装するよう な、説得に似た性質の印象づけによって、主として想像力に訴えることによる。ところで、信 仰と宗教の問題において、われわれはその想像力を理性の及ばないところに高めるのであっ て、それこそ、宗教がつねに比喩と象徴とたとえ話とまぼろしと夢によって、精神に近づこう とした理由なのである。】
「人間の精神の諸能力に関する知識には二つの種類がある。すなわち、その一つは人間の悟 性と理性に関するものであり、他の一つは人間の意志と欲望と感情に関するものである。そし てこれらの能力のうちさきの二つは、決定あるいは判定を生み、あとの三つは行動あるいは実 行を生む。なるほど、想像力は、双方の領域において、すなわち、判定を下す理性の領域にお いても、またその判定に従う情意の領域においても、代理人あるいは「使者」の役割をつとめ る。というのは、感官が想像力に映像を送ってはじめて理性が判定を下し、また理性が想像力 に映像を送ってはじめてその判定が実行に移されることができるからである。それというの も、想像はつねに意志の運動に先だつからである。ただし、この想像力というヤヌス〔二つの 顔をもつローマの神〕はちがった顔をもっていないとしてのことである。というのは、想像力 の理性に向けた顔には真が刻まれ、行為に向けた顔には善が刻まれているが、それにもかかわ らず、「姉妹にふさわしいような」〔オウィディウス『変身譚』二の一四〕
顔なのであるから。なおまた、想像力は、ただの使者にすぎないのではなく、伝言の使命のほ かに、それ自身けっして小さくない権威そのものを付与されるか、そうっとそれを僭称してい る。というのは、アリストテレスの至言のように、「精神は身体に対して、主人が奴隷に対し てもつような支配力をもっているが、しかし理性は想像力に対して、役人が自由市民に対して もつような支配力をもっている」〔『政治学』一の三〕のであって、自由市民も順番がくると 支配者になるかもしれないからである。すなわち、われわれの知るように、信仰と宗教の問題 において、われわれはその想像力を理性の及ばないところに高めるのであって、それこそ、宗 教がつねに比喩と象徴とたとえ話とまぼろしと夢によって、精神に近づこうとした理由なので ある。それからまた、能弁によって行われるすべての説得や、事物の真のすがたを色どり偽装 するような、説得に似た性質の印象づけにおいて、理性を動かすのは、主として想像力に訴え ることによるのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一二・一、pp.207-208、服 部英次郎、多田英次)
(索引:想像、意志、宗教、信仰)
B・二・三【どのようにして感情をたがいに対立させあい、他方によって一方を制するか についての認識は、道徳と政治に関することがらには特別に役だつ。想像力により感情がしず められ、あるいはもえたたされ、行動に発展するのを抑制され、あるいは抑制されていたもの が発動する。】
「詩人と歴史の著述家がこの認識の最上の教師であって、われわれは、そこにつぎのような ことがいきいきと描かれているのを見る。すなわち、どのように感情がもえたたされ、かきた てられるか、それがどのようにしずめられ、抑えられるか、そしてまた、それが行動に発展す るのをどう抑制されるか、抑えられたものがどのようにして外に出るか、それがどう活動する か、どう変化するか、それがどうつのってはげしくなるか、それらの感情がどのように重なり あうか、それらがどのようにたがいに戦い角つきあうかなどといったことが一つ一つ描かれて いる。それらのうち、最後にあげたことが、道徳と政治に関することがらには特別に役だつも のである。くりかえしていえば、それは、どのようにして感情をたがいに対立させあい、他方 によって一方を制するかということである。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、二二・六、pp.293-294、服 部英次郎、多田英次)
B・二・四【詩は、事物の本性が人間の精神に満足を与えないような場合に、想像力が、 人間の霊の要求に応じて自由に、より豊かな偉大さと、厳格な善と、完全な多様性とを表現す るところの、極度に無拘束な学問の部門である。これは、歴史上の行為とか事件とかを、より 偉大で、かつ英雄的なものとして仮作してきた。】
「詩は、韻律の点では大いに制約されているが、しかし他のすべての点では、極度に無拘束 な学問の部門であって、ほんとうに想像力に関係するものである。想像力は、物質の法則にし ばられることなく、好き勝手に、自然がひきはなしているものを結びつけ、自然が結びつけて いるものをひきはなし、こうして、自然の法則に反する結婚や離婚をさせるのであて、「画家 や詩人には、創作の自由がある」〔ホラティウス『詩篇』九〕といわれているとおりであ る。」「この仮作の歴史の効用は、世界のほうが人間の魂よりもその品位がおとっているので、事 物の本性が人間の精神に満足を与えないような場合に、ある満足の影のようなものを与えるこ とであった。そうしたわけで、詩には、人間の霊の要求に応じて、事物の本性に見出されうる よりも豊かな偉大さと、厳格な善と、完全な多様性とがあるのである。こういう次第で、ほん とうの歴史上の行為とか事件とかは、人間の精神を満足させるほどの偉大さをもたないから、 詩はそれよりも偉大で、かつ英雄的な行為と事件を仮作するのである。ほんとうの歴史は、行 動の結末と成行きを、因果応報の理に応じて述べないから、それゆえに、詩は、それらがもっ と正しく応報をうけ、神の示された摂理にもっと一致するように仮作する。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、四・一、四・二、pp.146- 147、服部英次郎、多田英次)
(索引:想像力、詩、仮作された歴史)
B・二・五【フランシス・ベーコンの夢:「博物誌」のあとに、私が理想と考えるところ の一つの法体系、あるいは国家の最良の様態、ないしは型を記述してみたい。これは、すべて を模倣することは到底不可能と思われるほど壮大かつ高尚なものではあるが、人間の力で実現 可能なものとして、構想されるものである。】
「この寓話はわがベーコン卿が、人々の益となるよう、自然の解明と、数々の驚嘆すべき大 規模な装置の製造のために設立される学院―――「サロモンの家」または「六日創造学院」と呼 ばれる―――の雛型あるいは概要を示そうとされたものであります。卿はそこまでは書き終えて おられました。誠にその雛型は壮大かつ高尚、すべてを模倣することは到底不可能であります が、その中の多くは人間の力で実現可能なものであります。卿はまたこの寓話において、一つ の法体系、あるいは国家の最良の様態、ないしは型を記述する意図をお持ちでした。しかしな がらそれは長くなることを予知され、その前にぜひとも「博物誌」の編纂をしたいという願い に従われることになりました。ご覧のように『ニュー・アトランティス』を(英語版に関する限り)、「博物誌」のあとに 置くのは、わが卿が意図されたことであります。この著述は(その一部が)「博物誌」と密接 な関連があるとお考えになっておられたのです。」
(ウィリアム・ローリー(1588頃-1667)『ニュー・アトランティス』読者に、p.6、川西進)
B・二・六【人間の知性を捕えてしまって、そこに深く根を下ろしている「イドラ」およ び偽りの概念を前もって知り自分を守らなければ、真理への道を開くのは困難になろう。】
「すでに人間の知性を捕えてしまって、そこに深く根を下ろしている「イドラ」および偽り の概念は、真理への道を開くのが困難なほど、人々の精神を占有するのみならず、たとい通路 が開かれ許されたとしても、それらはまたもや諸学の建て直し〔革新〕のときに出現し、妨げ をするであろう、もしも人々がそれらに対し、前もって警告されていて、できるだけ自分を守 るのでないかぎり。」「人間の精神を占有する「イドラ」には四つの種類がある。それらに(説明の便宜のため に)次の名称を付けた、すなわち、第一の類は「種族のイドラ」、第二は「洞窟のイドラ」、 第三は「市場のイドラ」、第四は「劇場のイドラ」と呼ぶことにする。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、三 八、三九、pp.82-83、桂寿一)
(索引:イドラ)
B・二・六・一【種族のイドラ:人間の知性は、いわば事物の光線に対して平らでない 鏡、事物の本性に自分の性質を混じて、これを歪め着色する鏡のごときものである。】
「「種族のイドラ」は人間の本性そのもののうちに、そして人間の種族すなわち人類のうち に根ざしている。というのも、人間の感覚が事物の尺度であるという主張は誤っている、それ どころか反対に、感官のそれも精神のそれも一切の知覚は、人間に引き合せてのことであっ て、宇宙〔事物〕から見てのことではない。そして人間の知性は、いわば事物の光線に対して 平らでない鏡、事物の本性に自分の性質を混じて、これを歪め着色する鏡のごときものであ る。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 一、p.84、桂寿一)
(索引:種族のイドラ)
B・二・六・一・一【種族のイドラの例(一):否定的な、あるいは成果のないものに よってよりも、肯定的な、あるいは成果のあるものによって心を動かされる。】
「すべての人間の本性は、否定的な、あるいは成果のないものによってよりも、肯定的な、 あるいは成果のあるものによって心を動かされるという事例に認められる。それゆえ、一度か 二度うまく当たって成功しさえすれば、もうそれで、たびたび当たらず失敗することの埋め合 わせとなるのである。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一四・九、p.227、服部英次 郎、多田英次)
「人間の知性は(或いは迎えられ信じられているという理由で、或いは気に入ったからとい う理由で)一旦こうと認めたことには、これを支持しこれと合致するように、他の一切のこと を引き寄せるものである。」(中略)「いや逆に、すべて正しい公理を構成するには、否定的 な事例のもつ力のほうがより大きいのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 六、p.87-88、桂寿一)
B・二・六・一・二【種族のイドラの例(二):実際にはない秩序と斉一性を想定す る。】
「人間の知性はその固有の性質から、これが見出すより以上の秩序と斉一性とを、容易に事 物のうちに想定するものである。そして自然においては、多くのものが個性的で不等であるの に、知性は実際にはありもしない並行的なもの、対応的なもの、相関的なものがあると想像す る。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 五、p.86、桂寿一)
B・二・六・一・三【種族のイドラの例(三):人間の知性は静止することができず、常 により先に何かがあるが考える。このため、世界の究極や極限とか、永遠に関すること、線が どこまでも可分的であるなどと考えるようになる。また、本来は原因を求め得ずそのまま肯定 的なものにまで、原因を求めるようになるのも、知性のこの働きによる。】
「人間の知性は絶えずいらいらして、静止もしくは休止することができず、常に先へ進もう とするが、しかし無駄働きなのである。それゆえに〔知性にとっては〕世界の究極もしくは極 限なるものは思惟され得ず、常により先に何かがあるということが、いわば必然的に生ずる。 さらにまた永遠がどのような仕方で、今日まで流れてきたかということも思惟され得ない。」 (中略)「線がどこまでも可分的であるという細かしい理屈も同様であって、思惟の〔止まる ことの〕不能からくる。ところが精神のこの不能は、原因を見出してゆく場合に、より大きな 災いを伴って障害を与える。というのは、自然における最も普遍的なものは、それらが見出さ れるごとく、また実際原因を求め得ないように、本来〔そのままの〕肯定的なものであるべき なのに、人間の知性は止まることを知らずして、なお〔自然に関して〕よりもとのものを求め る。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 八、pp.89-90、桂寿一)
B・二・六・一・四【種族のイドラの例(四):自然は人間の行動と技術に似たはたらき をすると考える。】
「どれほど多くのつくりごとと空想をば、自然は人間の行動と技術に似たはたらきをすると の考えが、人間は万物の「共通の尺度」〔プロタゴラス〕との考えといっしょになって、自然 哲学に導き入れられたかは、指摘されるまでは、信ぜられないほどである。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一四・九、p.228、服部英次 郎、多田英次)
B・二・六・二【洞窟のイドラ:各個人は、受けた教育、談話した人々、読んだ書物、尊 敬し嘆賞する人々の権威などに応じて、多様で全く不安定な、いわば偶然的で特殊な性質を、 それぞれ持っている。】
「「洞窟のイドラ」とは人間個人のイドラである。というのも、各人は(一般的な人間本性 の誤りのほかに)洞窟、すなわち自然の光を遮り損う或る個人的なあなを持っているから。す なわち、或は各人に固有の特殊な性質により、或は教育および他人との談話により、或は書物 を読むことおよび各人が尊敬し嘆賞する人々の権威により、或はまた、偏見的先入的な心に生 ずるか、不偏不動の心に生ずるかに応じての、印象の差異により、或はその他の仕方によって であるが。したがってたしかに人間の精神とは、(個々の人の素質の差に応じて)多様でそし て全く不安定な、いわば偶然的なものなのである。それゆえにヘラクレイトスが、人々は知識 をば〔彼らの〕より小さな世界のうちに求めて、より大きな共通の世界の中に求めない、と 言ったのは正しい。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 二、pp.84-85、桂寿一)
(索引:洞窟のイドラ)
B・二・六・二・一【人物についての認識:性質、欲望と目的、習慣、生活様式、長所と 強み、弱点と短所、無防備なところ、友人と一味徒党と子分たち、反対者とそねむ者と競争 者、機嫌と潮時、主義、しきたり、習性、行動、その行動が好意をもたれ、反対されている か、どれほど重要であるかなど。】
「その性質、その欲望と目的、その習慣と生活様式、その助けとなっている長所とその強み のおもなもの、それからまた、その弱点と短所、そのもっともあけっぱなしで無防備なとこ ろ、その友人と一味徒党と子分たち、それからまた、その反対者とそねむ者と競争者、「あな ただけがかれにそっと近づく潮時を知っている」〔『アイネイス』四の四二三〕といわれる、 その機嫌と潮時、その主義としきたりと習性など、しかも人物についてだけでなく行動につい ても、どういうことがときおり行なわれているか、その行動がどのようになされ、好意をもた れ、反対されているか、どれほど重要であるかなど、一つ一つの点について正しい情報をつか むことである。というのは、相手の現在の行動について知ることは、それ自身たいせつである ばかりでなく、それを知らなければ、人物についての認識もひどくまちがったものとなるから である。それというのも、人間は行動とともに変わるものであって、あることを追求している ときと、本性にもどったときとでは人がらが変わることもあるからである。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、二三・一四、p.323、服部英 次郎、多田英次)
B・二・六・二・二【意志と欲望に影響を及ぼしうるもので、われわれが自由に支配でき るものがある。それらにより、人間に可能な限度で、精神の健康を回復し良好な状態を保持す るための処方が可能となる。それは、習慣、鍛錬、習性、教育、模範、模倣、競争、交わり、 友人、賞賛、非難、勧告、名声、おきて、書物、学問である。】
「さて、次の論題は、われわれがそれを自由に支配することができ、しかもそれは意志と欲 望に影響を及ぼして性格をかえるような力と作用を精神に対してもつものについてであるが、 それらのもののうち、哲学者たちは、習慣、鍛錬、習性、教育、模範、模倣、競争、交わり、 友人、賞賛、非難、勧告、名声、おきて、書物、学問をとり扱うべきであった。というのは、 これらは道徳論においてはっきりした効用のあるものであり、これらによって精神は影響と感 化をうけるのであり、また、これらから、精神の健康と良好な状態を、人間の手でなおしうる かぎり、回復しあるいは保持するのに役だつような処方が調剤され書かれるからである。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、二二・七、pp.294-295、服 部英次郎、多田英次)
B・二・六・三【市場のイドラ:人間を社会的に結合する会話、生活の中で獲得されてき た言葉は、驚くべき仕方で知性の妨げをし、人々を空虚で数知れぬ論争や虚構へと連れ去 る。】
「またいわば人類相互の交わりおよび社会生活から生ずる「イドラ」もあり、これを我々は 人間の交渉および交際のゆえに、「市場のイドラ」と称する。人間は会話によって社会的に結 合されるが、言葉は庶民の理解することから〔事物に〕付けられる。したがって言葉の悪しく かつ不適当な定めかたは、驚くべき仕方で知性の妨げをする。学者たちが、或る場合に自分を 防ぎかつ衛るのを常とするとき使う定義や説明も、決して事態を回復はしない。言葉はたしか に知性に無理を加えすべてを混乱させる、そして人々を空虚で数知れぬ論争や虚構へと連れ去 るのである。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 三、p.85、桂寿一)
(索引:市場のイドラ)
B・二・六・三・一【すべての政治論の中で、噂ほど扱われる価値のある題目はない。】
「すべての政治論の中で、この噂の題目ほど扱われることが少なく、しかもこれほど扱われ る価値のある題目はない。それゆえ、われわれは次の点について述べよう。すなわち何が偽り の噂であるか、何が真実の噂であるか、どうすればそれらが最もよく見分けられるか、どのよ うに噂は種を蒔かれて立てられるか、どのように広がって大きくなるか、どうすれば食い止め られて消されるか、そのほか噂の本性に関するいろいろなことである。噂には非常に大きな力があり、それが大きな役割を演じていない偉大な行為はほとんどない ほどである。とくに戦争においてそうである。」(中略)
「それゆえ、すべての賢明な支配者は行為や計画そのものについてと同様に、噂についても 十分に警戒し注意するがよい。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ベーコン随想集』五九、pp.251-252、渡辺義雄)
(索引:噂の研究)
B・二・六・四【劇場のイドラ:哲学説が受け入れられ見出された数だけ、架空的で舞台 的な世界を作り出すお芝居が、生み出され演ぜられた。】
「最後に、哲学のさまざまな教説ならびに論証の誤った諸規則からも、人間の心に入り込ん だ「イドラ」があり、これを我々は「劇場のイドラ」と名付ける。なぜならば、哲学説が受け 入れられ見出された数だけ、架空的で舞台的な世界を作り出すお芝居が、生み出され演ぜられ たと我々は考えるからである。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、四 四、pp.85-86、桂寿一)
(索引:劇場のイドラ)
B・二・六・四・一【劇場のイドラ:「偽りの哲学」の三つの種類、詭弁的哲学、経験的 哲学、迷信的哲学】
「哲学者のうち合理派は、経験からさまざまなありふれたことを、しかも充分に確かめるこ とも、慎重に吟味し考量することもなく撮み上げ、あとは省察と知能の動くままに委ねるから である。また哲学する人々には他の種類の人もあって、少数の実験に熱心かつ細心に魂を傾け、そし てそこから哲学を引き出し作り出そうとあえてした、驚いたことには、残余のことは無理に歪 めてそれらに合わせながら。
さらにまた第三の、信仰や礼拝から神学および伝承を、〔哲学に〕混入する人々の種類もあ る。これらの人々の間では、或る人たちの虚想は常軌を外れて、諸学をば霊や守護神に求めか つそこから導き出そうとした。かくして誤謬の根元および「偽りの哲学」は、種類として三つ あることになる、すなわち「詭弁的、経験的および迷信的」である。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、六 二、p.102、桂寿一)
(索引:偽りの哲学、詭弁的哲学、経験的哲学、迷信的哲学)
B・二・六・四・二【劇場のイドラ(一)詭弁的哲学:まず自分勝手に一般的命題を決定 した後に、人に答えるときにどのような言葉でどう述べるかを考えて、哲学を構成する。】
「その他無数のことを、自分の意のままに事物の本性に押しつけた。しかも事物の内的な真 理についてよりも、むしろ人が答えるときどのようにして述べるか、また或ることをどのよう に積極的に言葉に表わすかということに、いつもやきもきしながらである。」(中略)「というのは彼はまずもって決定しておいたので、決定や一般命題を構成するために、当然 すべきように経験に相談したのではなかった。そうではなくて自分の勝手に決定した後に、経 験をば思いのままに歪め、虜囚のようにして引き廻すのだから。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、六 三、pp.103-104、桂寿一)
(索引:詭弁的哲学)
B・二・六・四・三【劇場のイドラ(二)経験的哲学:数少ない実験の結果を一般化し、 性急で軽率にも、普遍的な原理へいっきに跳躍し、自分の哲学を作り上げる。】
「ところが哲学の「経験派」は、「詭弁的」もしくは合理的な派よりも、畸形的かつ奇怪な 教説を導き出す。なぜならば、それは通俗的な概念の光(この光は薄くかつ皮相的ではあって も、或る意味で普遍的で多くのものに及んでいる)のうちにではなく、数少ない実験の狭さと 暗さのうちに、基礎をもっているからである。」(中略)「今の時代では、おそらくはギルバートの哲学以外には、他にどこにもほとんど見出されな いであろう。だがしかしこの種の哲学の関しては、決して用心が怠られてはならなかった。と いうのは、我々が心ひそかに予見し予告するところでは、人々がいつかは我々の忠告に目覚 め、(詭弁的教説に別れを告げて)真剣に実験に立ち向かうとき、その時になって、知性の早 まった性急な軽率と、普遍的なものおよび事物の原理への、跳躍もしくは飛躍とのために、こ の種の哲学から、大きな危険が迫ってくるようなことが起こるだろうし、この害悪にも今から 備えておかねばならないからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、六 四、pp.104-105、桂寿一)
(索引:経験的哲学)
B・二・六・四・四【劇場のイドラ(三)迷信的哲学:とくに高踏的かつ飛翔的な知能の うちには、知性の野心ともいえるものがあり、空想的で大げさで、いわば詩的な哲学を作り上 げる。】
「哲学の戦闘的かつ「詭弁的」な種類も、知性をとりこにするが、かのもう一つの空想的で 大げさで、いわば詩的な種類は、いっそう多く知性にへつらうからである。人間には、意志の 野心に劣らぬ知性の野心というものが、とくに高踏的かつ飛翔的な、知能のうちにはあるもの なのである。」(中略)「誤謬の「神格化」は最悪のことであり、もしも虚影に崇拝が加わるなら、知性の疫病と見 なさなければならないからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、六 五、pp.105-106、桂寿一)
(索引:迷信的哲学)
B・二・六・四・五【古代の哲学の集録の効用:哲学はすべての学問の母であり、私たち 人類が幼少だった頃の諸哲学のなかから、いままで残っていて光明となりうるものを集録する ことは、ほんとうの母を見分けるために必要なことである。】
「経験もまた、幼少の状態にあるときは、あらゆる哲学を母と呼ぶものであるが、成熟すれ ば、ほんとうの母を見分けるのである。そういうわけで、さしあたっては、各人は自然のある 点を他の仲間よりもはっきりとみたかもしれないので、自然についての多くの異なった説明と 意見を知ることは有益であり、それゆえに、「古代哲学の集録」が、それらの哲学のうちいま まで残っていて光明となりうるもののなかから、念入りにわかりやすく、つくられることを、 わたくしは希望する。そのような労作が欠けていることを知っているからである。しかし、こ のさいわたくしは、そのような集録は、個々別々に分け、各人の哲学を終始、個別にとり扱っ て、プルタルコスによってなされたように、標題によって一括してまとめる〔『倫理論集』に おさめられている諸篇でしたように〕ことのないよう、あらかじめ注意を促さなければならな い。というのは、ある哲学に輝きと信用を与えるものは、その哲学自体における調和であり、 これに反して、それがつまみ出され、ばらばらにされるなら、その哲学は、奇異で、耳ざわり なものとなるからである。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、八・五、pp.182-183、服部 英次郎、多田英次)
(索引:古代の哲学の集録)
B・二・六・四・五・一【無題】
先哲らの哲学に輝きを与えているその哲学自体における調和を壊さずして、なおかつ、未来 へ継承すべき真なるものを、誰にも簡単に読めるように提示すること。この際、ベーコンが注 意するように、先哲の思想をばらばらにしてしまうことを免れ、のみならずむしろ、他の先哲 の思想とともに記述することによって、彼でなければなし得なかった最も重要な成果物を、浮 き彫りにすること。これが、当命題集の試みるところである。B・二・七【異常な自然の歴史:自然のなかの驚異的な現象を発見、収集し研究すること は、一般的命題や学説の偏見を是正する効用があり、人工の驚異を実演する術を見つける一番 の近道である。なおまた、魔術や妖術や夢や占いなどに関する迷信的な話の研究も、自然の秘 密を明らかにするためには、まったく除外せねばならぬとは考えない。】
「アリストテレスがありがたくも先例をつくってくれたこの仕事の効用は、驚異の物語のす るように、せんさく好きでむなしい精神の欲望を満足させることではけっしてなく、つぎの二 つのいずれも重要な理由によるのである。その第一は、ありふれた熟知の例のみにもとづいて うちたてられるのがつねである、一般的命題や学説の偏見を是正するからであり、その第二 は、自然の驚異から出発するのが人工の驚異を実演する術を見つける一番の近道であるからで ある。それというのも、さまよえる自然のあとをつけ、いわば、かぎつけることによってこ そ、自然をのちにまたもとの場所に連れもどすことができるからである。なおまた、わたくし は、この驚異の歴史において、魔術や妖術や夢や占いなどに関する迷信的な話を、事実である ことの保証やはっきりとした証拠がある場合、まったく除外せねばならぬとは考えない。とい うのは、超自然力のせいにされている結果が、どのような場合に、どの程度まで自然的原因に 関係があるのかがまだわかっていないからである。こういう次第で、魔術など行なうことはと がめられるべきではあろうが、しかしそれらのものを観察し考察することによって知識が得ら れて、まちがいを識別できるだけでなく、自然の秘密をなおいっそうあきらかにすることがで きるかもしれないのである。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一・四、pp.128-129、服部 英次郎、多田英次)
(索引:異常な自然の歴史、魔術、妖術、夢、占い)
B・二・八【問題の一覧表の効用:誤りが誤りを生ずることを防止し、またふつう不用意 にも考えもしないようなことを明確にし、よく考えるように促してくれることである。】
「質問を登録することには、二つのすぐれた効用があって、その一つは、そのことが哲学を 誤りと偽りから救うという効用であるが、それというのは、明瞭に証明されていないものがと りまとめられて、一つの主張となると、そこから誤りが誤りを生ずるというようなことはなく なり、疑問は疑問として保留されるからである。もう一つの効用は、疑問を登録することはま るで吸管か海綿かのように、知識の増加をすいつけるのであって、それというのは、まず疑問 にされることがないならよく考えてもみないし不用意にみのがしてしまうようなものでも、疑 問によって暗示されひかれると、よく気をつけて考えるようになるからである。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、八・五、p.180、服部英次 郎、多田英次)
(索引:問題の一覧表)
B・二・九【誤りの一覧表の効用:人間の知識がそのような不純で空虚なものによって弱 められたり卑しくされたりしないためである。】
「もう一つの、それにおとらず、あるいはそれよりも重要な一覧表をつけ加えるのがよいと 思う。それは、一般にひろまっている誤りの一覧表である。わたくしのいうのは、主として自 然誌においてのことであるが、たとえば、ことばとして、また意見として通用してはいるが、 それにもかかわらず、うそであるとはっきり看破され確認されているような誤りの一覧表で あって、それをつけ加えるのは、人間の知識がそのような不純で空虚なものによって弱められ たり卑しくされたりしないためである。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、八・五、p.181、服部英次 郎、多田英次)
(索引:誤りの一覧表)
B・二・一〇【記憶術:想起しようと思うものをあてどなくさがす労を省き、狭い範囲内 を探すようにしてくれる「予知」と、知的な想念を感覚的な映像に変換し記憶しやすいように する「象徴」との二つの意図から、記憶術を引き出すこと。】
「この記憶の術は、二つの意図に基づいてうちたてられるものにほかならない。その一つ は、予知であり、もう一つは象徴である。予知〔われわれが想起しようと思うものをどこにさ がし求めたらよいかをあらかじめ知ること〕は、想起しようと思うものをあてどなくさがす労 を省き、狭い範囲内に、すなわち記憶のありかにぴったりあっているものをさがすことを教え てくれる。つぎに、象徴は知的な想念を、感覚的な映像にかえてしまうのであるが、このほう がいっそう記憶に残るのである。予知と象徴の準則からは、いま行われているよりもずっとす ぐれた記憶術を引き出すことができるであろう。」(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一五・三、p.233、服部英次 郎、多田英次)
(索引:記憶術、予知、象徴)
B・二・一一【知識の伝達法:教え込んで利用させる方法と、証明してみせて前進させる 方法とがある。植物と同じように、移植して成長させようと思うなら、根のない木の美しい幹 の運搬のような方法ではなく、自分が得た知識にどうして到達したかを理解させるような方法 で、根をしっかりと育てることが大切だ。】
「なおまた、伝達の方法あるいは本性は、知識の使用にとってたいせつであるだけでなく、 知識の進歩にとってもたいせつである。というのは、ひとりの人間の労力と生涯では知識の完 全に到達することができないがゆえに、伝達の知恵こそ、学ぶものを鼓舞して、学びとったこ とを踏み石に利用しつつ、さらに発見へと前進できるようにしてくれるものだからである。そ してそれゆえに、〔伝達の〕方法に関するもっとも本質的な差異は、〔伝達された知識を〕利 用させる方法と、前進させる方法との差異である。そのうち前者を教え込む方法、後者を証明 してみせる方法と名づけてよいだろう。」「しかし、紡ぎつづけるべき糸として伝えられる知識は、できるものなら、それが発見され たと同じ方法で伝え知らされるべきであり、こういうことは帰納された知識なら可能である。 ところが、こんにちのような予断と推量の知識においては、だれも自分が得た知識にどうして 到達したかを知らないのである。しかしそれにもかかわらず、「多かれ、少なかれ」、ひとは 自分の知識と信念の基礎にまでたちかえり降りていって、それが自分の精神のなかで成長した とおりに、他人の精神のなかに移植することができるものなのである。というのは、知識も植 物の場合と同じだからである。すなわち、利用しようと思うなら、根は問題でないが、しかし 移植して成長させようと思うなら、さし木によりも根にたよるほうが確実なのである。同じよ うに、知識の伝達も(現在行われているところでは)根のない木の美しい幹の運搬のようなも のであって、大工にはそれでもよいが、植木師にはむかない。しかし、諸学を成長させようと する場合には、根を掘りおこすのによく注意すれば、木の茎や幹はたいして問題ではない。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一七・二、一七・三、 pp.240-241、服部英次郎、多田英次)
(索引:知識の伝達法)