情報=知識
という思い込みは危険で
知識とは情報をもとに実際の体験がともなってはじめて知識たりうるものになるんだとも思いますが
いづれにせよ
情報にせよ知識にせよ
こういうものを蓄えることと引き換えに心がどんどん凝り固まっていないか?
ということに気をつけねばなりますまいと思うわけでござる←日本語へん。
自分の正しさを証明するために他をこき下ろす必要があるのか?
そもそも
他を否定するため自分の正しさを証明したいのか?
否定から入る正しさ程度のものは
次なる対立を生み、さらなる否定の連鎖です、、、
確かに愚かかもしれません
間違っているかもしれません
ただ、否定するひとたちだってそれら愚かなことに支えられて生きていくしかない現実を全て否定できるのでしょうか?
僕にはそれは滑稽に見えます。
そもそも人間とは矛盾を抱え、悩み
右往左往しながら生きていく生き物なんだと思います。
例えば子供は感性が柔軟だと思います
出来なかったことが次の日にできるようになる
それは、情報による思い込みがない分いろいろなことを自分感性というフィルターを通してどんどん吸収できるからです
これはだめなことだ
これは正しいことだ
と決めつけて心を固くしてしまっては
他を受け入れられずにそこで止まってしまいます
ダメだと思うことにも解決のヒントがあることだってあるかもしれません
ダメなことに目をつぶれと言っているわけではありませんよ
ただ他を見下したように否定することからはなにも始まらないような気がするんですよね、
なんだか、年配者のコンプレックスを聞かされているようで ←失礼
なので
ひたすら
こうやれたらいいなと思うことをやれる範囲でやっていったらいいんだと思います
そういう姿に共感するひとが増えて、
すこしずつ輪がひろがっていけたらいいですよね
それは
否定ではなく
肯定の連鎖です。
肯定の連鎖とまではいかないかもしれませんが
少なくとも
僕の田んぼのまわりの田んぼの人や
通りすがりの犬の散歩コースのひとなんかによく質問をされるようになりました
ここ気になってたんだよね
とか
なんだか面白そうなことやっとるなぁ
とかいわれたりします。
僕はおとなりはおとなりで代々やってきたやりかたがあるでしょうから
これみよがしに比較写真とかをのせて
ここが違うだとか
ここがダメだ
とか
愚かだ
とか言ったりすることはしたくありませんし、そもそも僕自身本業で専業農家をやっていることもあり、慣行農のこともよくわかっているつもりなので
いつもすみません、迷惑かけないように気をつけますんで~
とか話しかけたりするのですけど
なんだかここの土地柄かなんかしりませんがみんな気さくで優しいです
そして向こうは向こうで興味あるみたいで
けっこう話しかけてきてくれます。
僕は自然農や自然栽培をやられている方には
せっかく信じる道を見つけたんですから
対立するのではなく
共感の輪をひろげていきませんか?
と呼びかけたい気持ちがあります。
全否定するのではなく、混じりあいながら徐々に良い方向にシフトしていけたらなと思います
世の中のことも。
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