窮鼠、猫を噛む。
なんてことは、実際のところ、本当に生死を問われる状況にないと起こりえないのは、明白だ。
人は追い詰められるといろんな思考の "方法" がわからなくなる。
俯瞰すらも出来なくなってしまうこともしばしばある。
そんな状況にある人に届く声というのは、いままさに当事者の私から言えば、「好きなひと」や「憧れの存在」、「本当に信頼出来るひと」からの御言葉でしかない。
そういう意味でかなり前向きに "$uicideboy$" は、私に効果のあるの特効薬の1つだ。
彼らの希死観念や音楽に対する哲学も賞賛に値するものがあるが、それにしたって "Ruby Da Cherry" は身体に、脳みそに、精神に、深く染み渡ってしまう。
多くの鬱を乗り越える、というある種の作業をあと何回繰り返したらいいのだろう。
それでも首を切らない組織体制や環境は、ある意味不気味そのものでしかなく、むしろ多くの不信感を覚えてしまう。
一方で、目下のところ、生死をあまり問われない、と言われたらそれは間違いなく、だからこそわたしは "猫を噛めない。" とも言える。
とすれば、いつもの自責の観点から見ると、"死ぬ覚悟もないし、口だけのご立派なだけ?"、"結局その程度でしか取り組みが出来ていない" ことの証明になっている、という側面もありそうだ。
この現状を俯瞰して分析してもらう、なんてことは今の組織力では不可能に近く、常に"正しい" か "間違っている" という正誤が分からないまま、盲目的に進めていかなければならない。
私にとっては、それがとてつもなくストレスに感じてしまう。
多くの場合、"自責" にはそれを "監督" する存在が必要だと感じる。
空回りの "自責" や 不正解の "自責" は、当事者の本人では認識が不可能に近い、と私は実体験を通じて思う。
これも私の "プライド" や "思い込み" による "エゴ" なのだろうか。
いまや、それすら誰も何もわからずに、私は車に揺られている。
常に多くの葛藤や虚無、理不尽と共に自分自身を騙し続ける必要があるのだ。