自分の理想とする状況にならなくて、

物凄く落ち込む時があります。

 

自分はこのくらいはできるはず・・・と思っていた事に全然到達しておらず、
周りの人や状況と見比べて劣っていると感じた時に、

激しく落ち込んだりします。

 

それは、自分は出来ると思っていたが実際はそうではなかったから。

 

要するに自分を過大評価していたという事なのかもと思いました。


 

人は客観視する事がなかなか難しいのかもしれません。
 

 

例えば試験に受からなかったという事実があったとする場合、


評価する側からの視点から見てみると、
さもありなんと言えるのかもしれませんし、
何か全然違う理由があるのかもしれません。

 

そこで自分にできる事があるとするならば、

その事実を感情を挟まずに受け入れる事だと思いました。

もし、その事実を今もうクリアしているのであれば、
それ以上思い悩む必要は無く、

後はまた前を向いて日々を重ねていくだけ。

 

 

理屈は分かるけれど、なかなか簡単には心は晴れません。

 

 

ここで、前を向く力が出るかどうかは、
自己肯定感がどの位あるのかが関係している気がしました。

 

 

私は昔から本当に、自己肯定感がずば抜けて低いと感じています。

その為に生きていくのがかなり辛かったです。

 

今はそこからは成長したと思っていましたが、

こないだちょっとした事で心がつまずいて、

そこから立ち上がろうとする時に気力が湧かず、

まだまだ自己肯定感が低いままなのだと自覚した所です。

 

そして、そこでの評価にとてもウエイトを置いている事にも気づきました。

 

その評価が生活に影響を与える割合は、そんなに多くは無いはずなのに、
何故か落ち込んでいる間は、それが自分の人生の評価のすべてかである位に
気落ちしてしまったりします。



ちょっと落ち着いて考えると、
たとえその試験結果が最低最悪であったとしても、
相変わらず生きていく事は出来るはずです。

 

しかも、その執着さえ手放す事が出来れば、
落ち込む理由もなくなり、
日々を楽しく過ごす事も可能です。

 

最低限が出来る自分に感謝さえする事が出来れば、
執着から解放されると思いました。

まさに「生きてるだけで丸儲け」(明石家さんまさん談)

ですよね。

 

 

気落ちしてしまうのは、
その評価した人や、自分が出来損ないなのが原因なのではなく、
執着だったのだと。


そして、その執着さえも、
自分の考えというよりも、
世間の風潮からの自分への思い込み(刷り込み)
なのだと思いました。


心を軽やかに生きていくためにも
もっとハードルを下げて、
自分に優しく生きようと思います。