瞑想を続けていて、身体に変化が起こりました。心はスッキリ、頭は冴えて、新たな感覚が開いて、今まで感じなかったことに、確しかな認識を持つことができるようになりました。
人間は、まだまだ感じていない色々なものを認識できる能力が備わっているのだなぁと、つくづく思いました。それは、無限に広がっていて、終わりはない世界です。
ですから、「もうこれで悟った」なんて言っている人、「私はすべて分かった」と思っている人はそれがすべてだと思い込んでしまわれた人です。
瞑想による今回の出来事のようなことは、思い込みを捨てないと、起こりません。
無になるとか、空の世界とか、言葉では表現しようのないことですが、「捨てる」の意味を取り違えると、物を持ってはいけないような誤解が生まれます。
捨てるのは、「思い込み」であって、パートナーでも仕事でも家庭でも地位でもないのです。
捨てるのは執着であって、物ではないのです。
脳は「在るがまま」で物事を認識していないのです。認識していないというよりは、認識できないと言ってしまってもよいぐらいです。
自分の脳をコントロールするには、肉体の脳を越えたところに意識が行かないと出来るわけがありません。
殆どの方が自分の中で自分をコントロールしようと頑張っているのですが、その場所に勝ち目はないです。
一時期は上手く行っても、しばらくすると、元に戻ってしまいます。
押さえつけられたエネルギーは病気などの違う形で出てきます。
まずは、自分の認識が「正しいと思っている思い込」みで成り立っているという自覚が出ない限り、次に進むことが出来ません。
悩みの多い人は、思い込みの世界にはまり込んでいるのですが、脳がそれを真実だととらえていると、その人はそこから目覚めることは出来ません。
信じることは大切ですが、唯一疑って良いのは「自分の思考」です。
疑う心は他人に向けるものではなく、自分の心に向けるものでもなく、物事にレッテルを張り付けている自分の思考に向けるべきなのです。
心は常に清らかです。
それを汚しているのが思考です。
ですから、思考が変われば感じ方も変わり、物事の意味も変わってきます。
日常に流されている人は、存在しないお化けに追っかけられている。
日常を楽しめる人は、宝の山を発見している。
日常に不満のある人は、足らないとこばかりを気にしている。
同じ場所に住んでいても、思考が違えば、幸不幸が分かれてしまいます。
自分の思考回路を見直す作業、それは瞑想によって、未知なる力と繋がって気づきを得て、目覚めていく過程で起こっていきます。