日本遺産 史跡 生野銀山

朝来市の生野銀山と志村喬記念館へ初めて訪ねてみました。竹田城の近くだったのですね。行はナビ通りに、新名神から中国道、播但自動車道で行ったのですが、帰りはナビは高速道路に乗せようとするので、一般道で和田山を目指し北近畿自動車道から舞鶴道で帰りました。生野銀山の門柱には菊の御紋がありました。三菱の創始者岩崎弥太郎に払い下げられて1973年(閉山)まで稼働していたのですね。坑内の中を1㎞ほど歩き、多くの人形が歓迎してくれていました。歴史を感じるのと同時に、過酷な重労働だったと思います。女性も頑張っていたんだ!その後は、クルマで10分もかからない志村喬記念館へ寄ってみました。岡田准一さんが訪ねていたのですね。受付案内の女将からのお話で、高倉健さんが岡田准一さんに「官兵衛の役をやるんだったら、志村さんの生誕地に行ってみては・・・」と勧められたそうです。入館料は無料だったので、コーヒーを注文して、しばし志村さんのお話にふけっていました。私が知っている映画作品は「ゴジラ」「七人の侍」「寅さん」「生きる」くらいで、他にも数多く出演しているのですね。ゴジラで共演した宝田明さん、河内桃子さんは美男美女でした。(ライブラリーから)

 

生野銀山は大同2年(807年)に銀が出たと伝えられ、室町年間の天文11年(1542年)には但馬守護職・山名祐豊(すけとよ)が銀石を掘り出し、開坑の起源といわれています。永禄10年(1567年)には自然銀を多く含む日本最大の鉱脈(慶寿ひ)が見つかる(銀山旧記には、“銀の出ること土砂のごとし”と記されている)。

 

 

日本遺産 史跡 生野銀山

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その後、織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て、慶長5年(1600年)徳川家康は、但馬金銀山奉行を配置、佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えてきました。

享保元年(1716年)には「生野代官所」が置かれ、やがて生野銀山は第八代将軍・吉宗の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出しました。

日本遺産 史跡 生野銀山

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明治元年(1868年)には日本初の官営鉱山(政府直轄)となった。明治政府は近代化を推し進めるため、「お雇い外国人第1号」のフランス人技師ジャン・フランソワ・コアニエを鉱山師兼鉱学教師として雇い、コアニエが帰国するまでの10年の間に、製鉱所(精錬所)を建設し、生野に日本の近代化鉱業の模範鉱山・製鉱所の確立をめざしました。

日本遺産 史跡 生野銀山

明治22年(1889年)には生野鉱山と佐渡鉱山が皇室財産に移され、宮内省御料局の所管となります。
明治29年(1896年)には三菱合資会社に払い下げられ、以後、三菱の経営で国内有数の大鉱山として稼働してきましたが、昭和48年(1973年)に閉山。その間に掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しており、採掘した鉱石の種類は70種にも及んでいます。
昭和49年(1974年)に観光施設として史跡・生野銀山が開業。
平成19年(2007年)には、銀が発見されてから1200年を迎え、「生野銀山開坑1200年事業」が盛大に執り行なわれました。

日本遺産 史跡 生野銀山

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日本映画の名優・志村喬さんの生家も「甲社宅」のうちの1棟でした。
志村さんは明治38年に生野で誕生。彼の父親は、冶金技師として明治時代から大正時代に生野鉱山に勤務していました。自叙伝には「精錬関係の責任者のような仕事をしていたので、生活もわりと裕福で、女中さんも雇っていた」という記載が残っています。
少年期を生野で過ごし、山神社の境内や市川などで遊んだとか。
 昭和48年、生野に帰郷した志村さんは生家を訪ね、柱の傷を懐かしそうに見ておられたそうです。その後、生家だった棟は取り壊されましたが、当時、庭にあった松の木は今もこの地に残っています。

 

 

日本遺産 史跡 生野銀山

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