忠臣蔵(討ち入り) | 草センリのブログ

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忠臣蔵
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江戸時代後期に、芝居で美化されたせいもあってか、すっかり「吉良」が悪者になってますが、果たして…

浅野内匠頭長矩(ながのり)
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1667~1701年
満7歳で、播州・赤穂藩3代藩主に。
外様大名で、5万3千石
官位:従五位下

吉良上野介義央(よしなか)
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1641~1703年
旗本で、4千石
「高家」の1つで、元禄14年3月は肝煎(きもいり)役で、差配をしてた。
官位:従四位上
 称号:左近衛少将

【高家】京極、畠山、一色、有馬、六角など十数家あり、2~3家が月番で肝煎をする。
主に、天皇勅使や朝鮮通信使の饗応にあたる。

(饗応の失策で、って光秀も、そーやったなぁ)

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江戸時代の政事は、将軍直属の家来で
・普代大名:1万石以上
・旗本:1万石未満
で行われていた。
旗本は御目見と、非御目見の御家人に分かれる

外様大名は、幕府にとって脅威的存在。参勤交代と普請で財力を削ぎ、些細な不始末・お家騒動などに難癖をつけては石高減らし・改易(転封=領地替え)・取り潰しを狙われた。

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浅野内匠頭(長矩)
1667年:生まれ
1674年:3代藩主に
1680年:叔父が増上寺で刃傷沙汰。叔父は切腹、長矩は謹慎
1680年:綱吉5代将軍に
 ~1709年
【元禄】1688~1704
1682年:朝鮮通信使饗応役の1人に
1683年:天皇勅使の饗応役の1員に
1684年:従兄が江戸城内で刃傷沙汰、謹慎
1691年:本所の火消し大名に任命される
1701年:2度目の朝廷勅使饗応役を拝命する

【登城】大名といえど、城内では太刀は預けて、脇差(小刀)だけ帯びる。

さて、
3月11~13日、勅使の饗応を終え、14日最高の儀式である「将軍が勅使に奉答」する日、午前中、吉良上野介ら数人が打合せをしていた場に、浅野内匠頭が現れ、脇差で背中から斬り付けてケガをおわせる。

吉良「浅野は乱心したのではないか?」に対し、浅野「一巳の恨みにて」と答えた、とか!

その場で取り抑えられ、午後には田村邸で謹慎。

恨みの元として
・吉良への賂が少なかった
・赤穂塩の製法を吉良に教えなかった(吉良の領地の製塩は粗悪)
・吉良の饗応予算案が多額とケチをつけた
などの結果、増上寺の畳替えを指示されず、失態による大恥をかかされた

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その場で、「慣れぬ仕事ゆえ、あれこれ悩み、眠れない日々、ついカーッとなり心乱れて…」とでもひたすら詫びていれば、「蟄居の上、家督相続」も成っていたとか?

その方向もあり、との周囲の配慮も、大老格“側用人”(将軍綱吉の寵愛人)柳沢吉保の黙殺で、午後には実情を知らされない綱吉の決断が下った!
・長矩、即日切腹
・赤穂浅野家取り潰し

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1701年:浅野家断絶
1702年:
 12月14日:討ち入り
 翌日、吉良上野介死去
赤穂浪士は、各大名への預かりとなる
1703年:
 3月20日:各地で切腹
 同日、吉良家は領地召し上げ、地方大名に
1706年:吉良義周が死去し、吉良家は断絶。のちに、復活する

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歳上、官位上(3階級)の吉良には、賂を贈るとか、いじめ・いやがらせは耐えて、お家・家臣存続を採らなかった若き浅野内匠頭の浅慮・短慮が招いた悲劇でしょうか!?

「戦」の無い時代、出世や官位の叙位は「お金」=賂、次第。
茶坊主にチップを渡さなきゃ、江戸城内では厠にも行けず。

常識が無かった!?
家臣や領民を路頭に迷わせ不幸にし、また似非「忠臣」を生んでしまったのは、単に内匠頭の「若気の至り!」では済まされないのかも?

吉良のお殿様の地元での人気は、決して悪いものでは無かった。