戦国時代を代表する軍師は誰か


 黒田官兵衛? 竹中半兵衛?


 いや違う


 天下統一に導いた軍師ではなく、戦国時代という乱世の時代を生き抜く道標を作った軍師が戦国時代を代表する軍師である。


 その軍師は3人おり、3大軍師と呼ばれている。


 武田家軍師:山本勘助晴幸、北条家軍師:北条幻庵、今川家軍師:太原崇孚雪斎



 3人について紹介する




 武田家軍師:山本勘助晴幸(?~永禄4年9月10日(1561年10月18日))


 三河国牛窪出身といわれており、正確な生誕年月日は不明。20代の時に牢人として諸国を遍歴し兵法や築城術を会得した。

 天文5年(1536年)、今川家に仕官を願うが、色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指もそろっていなかったため、仕官は叶わず9年駿河ですごした。

 天文12年(1543年)、武田家重臣板垣信方は駿河国に城取り(築城術)に通じた牢人がいると武田家当主武田晴信に勘助を推挙した。晴信は城取り(築城術)や諸国の情勢について勘助と語り、その知識の深さに感心し、深く信頼するようになった。その後の信濃での軍功により軍略の才が認められ、軍師として重用された。

 晴信は軍略政略について下問し、勘助はこれに答えて様々な治世の献策をした。優れた城取り(築城術)で高遠城、小諸城を築き、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれた。また、勘助の献策により有名な分国法「甲州法度之次第」が制定された。

 永禄2年(1559年)、信玄の出家とともに剃髪して、道鬼斎と称した。

 永禄4年(1561年)、第4回川中島の戦いにおいて討死。



 

 北条家軍師:北条幻庵(明応2年(1493年)~天正17年(1589年)11月1日)

 

 明応2年(1493年)、北条早雲の3男として生まれる。

 幼い頃から関東の守護神として東国武士に畏敬されていた箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺した。

 氏康の時代になると、政治家か僧侶としての活躍が本格化し、また天文4年(1535年)8月の武田信虎との甲斐山中合戦、同年10月の上杉朝興との武蔵入間川合戦などでは一軍を率いて合戦に参加しており、また永禄4年(1561年)3月の曽我山(小田原市)における上杉謙信との合戦で戦功のあった大藤式部丞を賞するように氏康・氏政らに進言している(『大藤文書』)など、一門の長老として宗家の当主や家臣団に対し隠然たる力を保有していた。

 天正17年(1589年)11月1日に死去。



 

 今川家軍師:太原崇孚雪斎(明応5年(1496年)~ 弘治元年閏10月10日(1555年11月23日))


 今川家家臣庵原左衛門尉の子として生まれ、9歳の時に出家。将来性をかわれ、京の建仁寺に入る。

 大永2年(1522年)頃、幼名を芳菊丸といった義元の教育係を務めることになった。

 その後、芳菊丸を京に連れ、建仁寺で修行をした。

 天文5年(1536年)3月17日、義元の兄である氏輝、彦五郎が死去。継嗣が無かったため、氏親の3男で義元の異母兄である玄広恵探と栴岳承芳こと義元の家督争いが起こる。この時、雪斎は義元の家督相続に尽力し、花倉館に籠城した玄広恵探を攻め、自刃に追い込んだとされている。このため、還俗して家督相続を実現させた義元は雪斎を厚く信頼し、政治・軍事における最高顧問として重用する。

 その後の活躍により、今川氏の発展に大きく寄与したことから「黒衣の宰相」「名補佐役」「軍師」などと現在では評価されている。 

 天文23年(1554年)3月には甲斐の武田晴信、相模の北条氏康に働きかけ、甲相駿三国同盟の締結に尽力した。この同盟に際し、現在では後世の創作との説が有力であるが、武田晴信、北条氏康、主君の今川義元の三家の当主を駿河の善得寺で会合させたとの伝説もある。この同盟に伴い、義元の嫡子・氏真に氏康の娘・早川殿が嫁ぐ。これにより、今川家は三河など西方面への作戦に兵力を集中することが可能になった。

 弘治元年(1555年)閏10月10日、駿河長慶寺にて死去。



 この3人の軍師により、武田家、北条家、今川家は戦国時代を代表する戦国大名となった。


 しかし、いずれの家も新興の織田や豊臣により滅亡した。