『1,000,000の「いいね!」より、一つのコメントに幸せを感じるんですよね~』って、
「プロフェッショナルの流儀」に出たら、そう言おうとおもっているんですよね~、NHK!オファーカモン!
『100』のいいね!すらついたことありませんが・・・(涙)、せんらくやです。
プラモ、絵、音楽、庭、農業、料理、DIY、カスタムバイク・・・
今は山一色ですが、私はこういったものに強く惹かれていました。
しかし、どれも極めることはありませんでした。
どれもこれも、ちょっとかじっては辞めてしまう。
気が多いというか、飽き性というか・・・そんな自分が嫌でした。
例えばプラモデル。
私は、いち早く完成させたくて、バリ取り(切り取った跡の凸凹をやすりをかけて
ツルツルに仕上げること)もせずに塗装して、塗装も乾かないうちに組み立ててしまいます。
仕上がりはもちろん見本のように「ていねい」に仕上がっていません。
例えば音楽。
好きな曲を弾きたいと思ってギターの練習をするも
早く一曲を通して弾きたいものだから、細かいところはどうでもよくなります。
結局、「ていねい」でない「雑」な音が鳴る。
ギターが上達することもなく気持ちはそこから離れていってしまいました。
山を始めた時、安くない山道具を毎月ひとつづつ買っていきました。
山道具はいざという時にその機能を発揮しなくてはいけません。
場合によっては命にかかわることもあるので大切にしなくてはいけません。
そして、何より貴重なお金で購入した山道具なので長く使いたいという思いもあり
ていねいに手入れをするようになりました。
貧乏性なので元を取ろうと毎週、毎週、山に行っては道具を使って帰ってきて、手入れをする。
山のことを知りたくて、いろいろ調べたくなる。
山で遊ぶということは道具もそうですが、
様々な知識や技術があるとより一層楽しめるものだと思います。
「山」という一つのことに様々なものが集約されているので、
気の多い、飽き性の私にとっては
「山につながる雑多なこと」が、ええ具合に気を散らしながら
統合させてくれたのかなと思います。
そして、山に行くと単純に「今そこに在るもの」だけを満喫して帰ってきます。
「ていねい」に歩いて、「ていねい」に手入れをするというルーティンができていました。
ここで挙げた私がはまらなかった2例と、はまった1例からわかることがあります。
それは、過去の私は「今」を大切にしていなかったということです。
完成形ばかりに気持ちが向いてしまって
「今、やらなければいけないこと」をないがしろにして進み
満足できない結果にたどり着くことを繰り返していたのです。
自分ができないがゆえに「ていねいに今と向き合った結果のもの」にあこがれていたのです。
そして、自分に何が足りていないから満足できないのかがわかっていなかったのです。
それは自分にていねいに向き合っていなかったからなのではないかと思いました。
山は一気には上がれません、一歩づつ歩くしかないのです。
つまづいてケガをしてもいけないので、「ていねい」にならざるをえないのです。
「ていねいに過ごす」とは
「今を大切にする」ことなのではないかと私は考えます。
「整体」「カウンセリング」という仕事がそうで、
これは「人間の命」という、ひとつのことに
様々な物事が集約されているのではないかと思います。
単純に「心と体」と言いますが、
心ひとつとっても心理カウンセリング学からみれば様々な要素があり、
体ひとつとっても筋肉、骨格、筋膜、姿勢、動きなど様々な要素があります。
そして、その命にはその人が過ごしてきた考え、気持ち、習慣、時間、体験など
様々な出来事の結果が今そこに在るのです。
いろいろ知識や技術を蓄えながらも「整体」「カウンセリング」の
その瞬間は「今そこに在る命」と向き合います。
そんな「命」に向き合えるということは私にとっては幸せしかありません。
山や整体、カウンセリングに出会えたことで
今、私は「ていねい」に「命」に向き合えるようになりました。
「物」に対してはやや適当かもしれませんが
「命」に対してだけは「ていねい」に向き合えていると自負しています。
そんな「ていねいにできる自分」が今は大好きです。
「ていねいに過ごす」ためには一度にたくさんのことはできません。
物や情報があふれて、何から手が付けたらいいのかわからない、
何も結局でき上がらずに、困っている時には
一つ一つ、しっかりと、みつめてみることから始めるといいと思います。
そして、その「ていねい」に向き合う対象はなんでもいいです。
私と同じように山でなくてもいいです。
料理でも、庭でも、プラモでも、車でも、トレーニングでも、
地下アイドルでも、スマホゲームでも、な~~んでもいいです。
自分自身が「あ、これ気持ちええな~」って思うこと
「こうなりたい」って思うことでいいんです。
対象はなんでもいいんです。
なんにも思いつかないって人もおられるかもしれません。
それならそれでいいんです。
ただ「ていねい」に毎日を過ごせばいいのです。
ていねいに顔を洗って、ていねいに歯を磨く、ていねいに食事を用意して
ていねいに食べる、ていねいに食器を片付ける、ていねいに話す・・・
「ていねい」の先に充実した「今」が連続して繋がっていき
充実した日々が過ごせるのだと思います。
我々、命のある人間は「今」を「ていねい」に味わって過ごすことが
幸福っていうことなのかな~なんていうことを思いました。
ていねいに歩いたある日の鈴鹿山系イブネにて
ていねいに脇をしめて撮った一枚の写真です。