ヤフオクやメルカリで努力は売っていませんでした。

努力ほしい、せんらくやです。


体育会系。

この言葉を聞いてみなさんは何を思い浮かべるでしょうか?

私が思い浮かべるのは根性、努力、気合というのがトップ3です。

 

私も小さいながら一応、空手、サッカーと経験し、体育会系出身という人種ではあります。

当時から、ひねくれてたガキだったので、
正直「え、マジで、なんなんこれ?はっ、この練習、何の意味があんの?」と、密かに考えている時もありました。

 

私の世代は「水は飲んだらバテるから飲むな」「下半身強化はうさぎ跳び」の世代です。

体が小さく、非力だった私は両膝をオスクッドシュラッター病という

成長期に起こる膝の病気にかかってしまい、一時運動ができなくなりました。
未だに膝が痛むことがあります。

当時はスポーツ医学も発展しておらず、原因も対策も陳腐なものでした。
膝の一番痛いところをク〇整形外科医に押さえられ、〇ソ太い注射をされる。
何を入れられていたのか、未だにわからない。

ここで恨み節をつづるつもりではないのですが、

2017年現在ではアカンとされている練習を1980年代当時にやって、
未だに壊れたままですよ。という、一つのサンプルとして知っておいてください。

ちなみにうちの息子も中学の時に同じ症状が現れました。

もちろん、私にそんな経験があるので整形外科に行かせることはなく

時間はかかりましたが正しい理論、方法で完治しました。

 

「貴様~歯を食いしばれ~」

「はい!」

バーン(顔面をどつく音)

戦争時代の映像でみたことのある景色は

未だにこの21世紀の世界の先進国である科学技術の発展した日本で
行われている事実であることを知り、驚きと共に悲しい。

うちの整体院にもそのような部活で心も体もボロボロになってしまった子がいます。

スポーツって、よいものなのに本当に辛い気持ちです。

 

昨年の放送されたものだが、このようなことはなぜ起こるのか?

「死ね!バカ!」これが指導? ~広がる“ブラック部活”~

もちろん、これが全てではなく一部の話であることで

多くの部活や指導者がそうではないということをリテラシーとしては
知っておいていただきたい。

 

指導や教育の中で鉄拳制裁といった生徒、選手にケガをさせるような行為。

カウンセラー目線でみると、これは明らかに指導者が自己一致できていない状態です。

指導者自身が思った通りの結果、反応がなければ不安になり苛立つ。

その不安な感情を解消するため弱者である生徒、選手に暴力を用いてしまう。
これがまた「なんで、殴ってしまったのだろう」と自己嫌悪の感情が沸き

自己肯定感を下げ、また、自己一致から離れてしまう。
私も子供のしつけとして、叩いたことはあるので、その感情の様子はわかります。
今ではとても後悔していることの一つです。

正しい暴力など絶対にありません。

正しく伝える方法を学べばいいだけなのです。

 

指導者は決して何かの任務を遂行する指揮系統のある団体の上官ではありません。

指導し、選手に考えさせて、能力を向上させるために勉強することが大切で

またはその方法を伝える能力を高めなければならないはずです。

 

自己一致できていないとその問題点にさえ気づけないこと、

これは実にもったいない。
さらに、これを持論としてお持ちの方はちょっとやっかいです。

暴力で気持ちが変わるという持論をお持ちなのなら

「あんたも誰かにどつかれたら、暴力で気持ちが変わるという、その考えが変わるのかな?」

と問いたい。

 

昔からあった罰として走らせる行為。

あれは、外国にもあるのかな~、軍隊もののアメリカ映画ではみたことあるな~。

ほな、陸上競技の走る人はみんな悪いことしたんか?となる。

走ることは心肺機能を向上させるためにも大切な練習メニューの一つです。
走力、心肺機能を上げるためのメニューは正式に組めばいい。

「しんどいこと」=「罰」という図式は実に建設的ではないし、そもそも、「罰」は「罪」に付随するものでスポーツに「罰」を当てはめるのはどうなんでしょうね。

 

奇跡のレッスンのテニス、ナダルらを育てたスペインのコーチは
厳しい練習の後の球拾いの時にはゆっくり歩いて行かせます。
この歩くという行動がテニスの試合に必要な持久力を高めるための
インターバルトレーニング(心肺機能を上げるスタミナを向上させるトレーニング)に
なっています。

 

同じく奇跡のレッスンから陸上競技、ジャマイカ ナショナルチームのコーチは

とても高負荷の厳しい練習を課します。ふざけているとガチで怒ります。
しかしそれは呼び出して注意することで、決して大声で怒鳴ったり、殴ったりはしません。

これは高負荷な練習なのでふざけて練習するとケガをするから
集中しろと選手のことを考えて怒る、注意するわけです。

 

2016年リオオリンピック柔道日本代表の井上康生監督と
岡田隆コーチのことはご存じでしょうか?

2012年ロンドンオリンピックでは金メダルが0だったことを受け就任。

今までの日本の伝統的な柔道スタイルと伝統的な練習を見直し

体のつくり方、練習方法など今までの柔道界の常識とは異なる方法を取り入れる。

金メダル3つを含む12個のメダルは世界トップの結果につながる。

 

ここではわずかな例を簡単にあげましたが

本当の体育会系は実に知的なのです。

今、当たり前になってしまっている「体育会系」の指導というものは

実は戦時中の軍国主義の名残なのではないかと私は考えています。


その理由としては戦後からまだ、たったの70数年、私が戦後二世代、
私の子は三世代目になるので私を指導、教育してくれた世代は戦後一世代にあたります。
そうなれば当然、少なからず当時の影響は残っていることは否めないと思います。

当時は国家主義で個性を没する教育思想が色濃く、我慢、耐え忍ぶことが
美徳とされていたと受け取っています。
それゆえに、個人それぞれが自己を抑制し、問題を抱えた状態だったことが
カウンセラー的に想像できます。

物質や情報が少ないからそれは当然なのかもしれないが
人の個性が尊重され平等であるというものよりも

立場や役職で上下が決まっていた、下は上に従うものという時代背景。

 

その時代の精神の名残がある、問題を抱えた状態の指導者は
もしかしたら自己一致できていない状態の可能性があります。

指導、教育と指示、命令、ついでに自分の問題感情の処理を
完全に混同させてしまっている状態なのではないでしょうか。

指導という名のもと、指導者が自己一致できず自分の問題を
下の世代で解消していたとするのならば

確実に次に世代に問題はバトンタッチされてしまう。

暴力の連鎖、虐待の連鎖、貧困の連鎖などでも見受けられる現象です。

 

指導者にとって大切なことはまず自己一致させること。
指導や教育は一体、誰のためになされるのか?
そこのところを考えれば自分の主観は一旦、横において
考えることができるのではないでしょうか。
 

自己一致できた状態の監督、コーチの元

選手が自己一致を獲得し「実現傾向」に向かって正しい努力をすること。

これがスポーツの最大の利点だと私は考えます。

それは競技スポーツ、エンジョイスポーツ、健康維持のためのエクササイズなど

どの運動、スポーツのみならず、吹奏楽などの文化部や仕事の場でも同じだと考えます。

 

 

それでは気持ちの面で弱くなるのではという反論も聞こえてきそうなので

そこの部分もカウンセラー的目線で書いてみます。

 

「勝ちたい気持ち」の強い方が勝つ。
これは私も経験済みやし、いろんなところで何度もみてきた光景です。

これを「気合い」「根性」「精神論」と呼ぶ場合もあるでしょう。

実はその「勝ちたい気持ち」の正体というのは「実現傾向」=「なりたい自分」
なのではないかと私は考えています。
体力、技術、実力、いろんな要素が拮抗した時ほど
その「実現傾向」=「勝者の自分」=「なりたい自分」の差が現れるのでしょう。
団体競技であれば勝つという結果を求める人が強い、多い方が勝つ
という結果につながるのではないかと思います。

強豪チームほど「自分たちは勝者である」という強い気持ちを持っている。

これが勝者のマインドであると私は考えます。

それが負ける時とは心のどこかに「負けたらどうしよう」という不安が沸き起こり

やるべきことがやれなくなるケースはどの競技でもあるし、経験のある方も多いでしょう。

(そもそも論をいえば元も子もないが本当の勝者、敗者というものはない
というのも付け加えておきたい。)

人生の中で負けた経験の多い私自身を振り返ってみても

負ける時っていうのは大体「あ、もう無理やわ・・・」というふうに

「実現傾向」を自ら捨てていたと思います。やるべきこともやらずにね。
(ここでいう実現傾向を捨てるは、その時の競技においてのこと限定です。)

 

昔、きつい「体育会系、愛のムチ」などの指導を受けて

「あれがあったから強い気持ちが育まれた」という気持ちもわかります。

私も「体育会系、愛のムチ」があったから、あの時のあの先生のおかげもあり
強くなれたと感じることもあります。
ありますが、しかし、思い出は美化されるし、
私を含めその後のいろんな人との関わりの中で立ち直れた人はそう思えると思います。

そうでない人は、あまりにも深く傷ついた人はそうではありません。

 

その時に少なからず受けた心の傷は
「自己肯定感を下げる」ことにつながるのではないでしょうか?

もっと他にいい方法はないのか?
今まで自分が受けてきたから良いという常識を疑ってみる。

そんな思考を止めないことが大切なのではと思います。

 

今の大人世代から問題を知り、受け入れ、自己一致、自己理解を深める。

そして「自分たちはこうだったが間違っていた可能性もある。」と思考を深める、
今までの常識を一度疑ってみる。
もし問題があったのなら問題の連鎖を断ち切る。
そうすれば、こうした軍国主義の香りがする指導や教育がなくなり、

自己肯定感にあふれ、
命の尊さを知り、
他者との関わりから自分を向上させ、
個性を尊重し尊重される。

そして、その個性の多様性の中で新たな価値観が想像され、
生きている者がみんなええ感じになる未来があるような気がします。

 

霊仙山のある、いい場所で一人山を歩くとそんな素敵な未来のことしか頭に浮かばない。