ジェイソン・ステイサムになると思って丸坊主にしてみたけど、
思てたんとちがうな~、せんらくやです。

 

「日本人は議論が不得意。」

そんな記事を最近よくfacebookのタイムラインやブログなどで目にすることが多いです。

(これも自分の目がそっちよりなんやろなと自己一致とリテラシーw)

 

私は一人で仕事をしているので緊迫した議論や会議というものとは縁遠い身分です。

そんな私が先日、その「日本人は議論が不得意」を感じた出来事がありました。

それは、あるところで、あることについての意見を出し合う機会があった時のこと。

私が言った(グループでまとめた意見を私は発表しただけなのですが)意見に対して

強い反対意見が、各グループの代表者からありました。

私はその反対意見については「あ、そうか、そういう考えもあるな」と受け止めていました。

その時間が終わった直後にその反対意見を言った方が
「さっきは強く言って、気を悪くさせてたらごめんなさいね。」と、

わざわざ誤りにきてくださったのです。

私はなんて、やさしくて、気遣いのできる人なんだろうと感激しました。

と、同時に、もしかしたら、その反対意見を言うことで私がその人を嫌いになると思ったのか?または私がそう感じさせたのだろうか?と振り返ってしまいました。
「全然、問題ないですよ」と言うだけで、確認はしませんでしたが。

 

「日本人は」という「ひとくくり」の主語は捨てたとしても「議論が不得意」って、
「反対意見を伝える」=「気を悪くさせる」・・・そういうことなのだろうか?

 

「議論」=〔名〕(スル)互いの意見を述べて論じ合うこと。また、その内容。

とデジタル大辞泉の解説では記されています。

そう、「議論」というものは意見を述べて論じ合うだけで、否定や批判はないはずなのに

それがなされると勘違いされているのではないでしょうか?

 

確かに私(45歳)の当時の学校教育では「議論する」なんて授業はなかった。

私自身、得意か不得意かと言われれば不得意かもしれない。

議論って、自分の意見をいうのも恥ずかしいし、
言えば言ったでなんか、こう、お互いにぎゃあぎゃあ言い合って、口ケンカみたいになるし
無駄にエネルギー使う感じで、その割に最後はあんまりいい気分になれない。
「論破」なんてされた日には本当に気分悪いはずです。

それなら意見は言わずにその場をうんうんとやり過ごす方が得策だと思う気持ちもあります。

 

ラグビーの世界では試合が終わることを「ノーサイド」というそうです。

これは試合が終われば敵も味方もないという意味からきているそうですが

「議論」「討論」もそれでいいはずだと私は考えます。

 

自分と違う考えを聞いて、知らないことを知り、

思考や理解を深めることに「議論」の意味があるはず。

どっちがいいとか悪いとか、どっちが正しいとか間違いとか、

自分の意見で攻撃するものではないはず。

昔、夜更かしだった時期に、某「朝まで〇〇レビ」という番組をみていると
この現象が起こっていたことを思い出します。

(今でもそうなのだろうか?きっとそうだろうな・・・)

「図書館戦争」という本の中で「正論は正しいが、正論を武器にするやつは正しくない」

という言葉があったことを思い出します。

私は「論破」という言葉はあまり好きではありません。

 

では、なぜ、こんなことが起こるのでしょうか?
カウンセラー的な目線でみるとやはり自己肯定感の低さ、
自己否定感がチラリと顔をのぞかしているように思います。

 

自己一致、自己理解がされていない状態とは問題を抱えた状態ということです。

その状態では自己否定感が強く出る傾向にあります。

議論の中で自分の意見と違う意見が出てくると、
立場や意見の客観視ができにくくなり、

自分の考え、広義では人格が否定された、受け入れてもらえないと感じてしまう。

すると、自分の弱いところを突かれると人は自分を守る態勢をとります。

怒りの感情がそのひとつです。

自己否定感が強い≒自分の弱いところを多く自分で作っていること。
その弱いところを議論で攻められたという勘違いが起こる。
怒りという感情が起こりやすくなり「出来事」を客観視する能力がさらに低下してくる。

すると、怒りを他者へぶつけることでその感情が処理されるということになります。

結果、議論が荒れる、すなわち、不得意という、うまくない現象が起こってしまいます。
これは意図的に起こしているのではなく、起こってしまうのです。

 

 

では、どうすればいいのでしょうか?
それは、自己一致、自己理解を深めて自己肯定感を高めるといいのです。

自己肯定感が高まると、他者のことも尊重できるようになります。

物事を自分の都合、立場でみることなく個性、多様性を受け入れられるようになります。

 

強い意見が持てない人で自己肯定感が低い人は人に意見を合わせることで

自分の身を守ることができる、いわば、群れの仲間になったような感覚になり安心できる。

(これが拡大されていったものが同調圧力かもしれません。これについてはまた今度)
が、それはあくまで合わせているだけで自分の意見ではないので、
いずれ、心(気持ち)と考え、行動に不均衡が生まれます。

それが場合によってはうつなどの精神疾患に発展してしまうこともなくはない。

 

また、強い意見を持ち、声の大きい人で自己肯定感の低い人は

その意見が共有された時には仲間、協力者が増えた気分、
強者、多数派の長になり、高揚感が沸き、とても心地よいのですが、

認めてもらえない時には否定感や疎外感を感じ、さらに自己否定感を高めることになります。
ちなみに私はこのタイプ寄りかな~と自己一致(笑)
だからと言って、今書いているこのブログに反対意見があってもへこむこともないですよ。
ご意見、ご感想、大歓迎です!


自己一致(自己理解、脳科学ではメタ認知ともいうらしい)と多様性と寛容性。
ここが実に大切になってくるところです。

 

他者の意見から自己を発展、成長させる。

そんな考え方ができれば、敵がいなくなります。

全ての意見が自分の糧になります。

結果、議論がうまくなり、快適な人生が過ごせます。

 

さらに、付けくわえれば、「議論」を「是か非か」「正しい、間違い」という
「オール オア ナッシング、100vs0、二択」的な視点でみるから

こういうことが起きるのかな?とも思ってしまいます。

「あなたの意見のこの部分は私は同意できるけど、その部分は違うな~」とか

「私のこの意見とあなたのその意見のここは一緒やけど、そこは違うよな~」とか
他者の意見を聞いて自分の意見を変えてもいいし、
「60%賛成40%反対」とか、でも、ええのとちゃいますのん?
人それぞれいろんな意見があってええのとちゃいますのん?
と思ったりもします。

 

 

それでは、意見交換の議論の場から少し発展した

何かを決定しなければいけない会議などの場ではどうすればいいのか?


会議の目的を明確し正確に共有することが大切なのではないかと考えます。

これは特に会議の場でそこそこのポジションに立てる人に知っておいてほしいことです。

 

会議の場というものは数人が集まって意見を出し合い
ある期限の間に何かを決定するというゴールがある場です。

その何かというもの、目的がなければ、また全員が理解できていなければ
決定どころか迷走してしまいます。

それが明確であれば、あるほど、目的を果たすために
どうするかということに議論を絞ることができます。

(まあ、大体、このどうするかのところで意見が対立して
お互いの人格批判が始まり、強い弱い、損か得か、派閥、数の論理などという
おかしなことが起こるのが人の常なのではあるが・・・。)
 

ここで自己一致、(自己理解、メタ認知)ができていれば
自己肯定感は満たされているので、
先ほどの議論のところで書いたように他者の意見も尊重できる。
他者の人格否定や自分の功績などよりも
目的の実務的な方法の意見が出し合えます。

どんな意見も、それぞれの人が出した意見であり尊重し合えるはずです。

尊重した上で、どの意見が最も目的に達成する可能性が高いかの精査をする。

期限、期間、予算、物質的、人的なところなど、その目的達成のための

いろいろな制約、制限があるはずなので、その中でどれが最適なのか。

いくつかの意見が出たら、優先順位、有効順位を制約、制限の中で

実現可能な順に決定、簡単に廃案にせずにプランA、プランBと

いろいろなオプションを設けることができるし

それはそれで、バックアップとして、目的達成のためには心強いものになるはずです。

いくつかの脳を出し合い、一つの脳では達成できないことを達成できる会議。

一人会議ばかりの私にとっては、素晴らしいものにみえます。

 

議論と会議がうまくなりたければ最強アイテム「ジコイッチ」を手に入れればいい
ということですが、これもまた、アップデートが必要です。
整処千楽也でもアップデート可能です(笑)

 

私は山でジコイッチのアップデートちう。

自然の中には良い悪いなんてものは何にもない。

ただ、そこに存在していることが全てだと、やっぱり、誰に聞いたかは忘れましたw

 

 


9月10日(日)10:00~15:00
滋賀県 野洲市 コミュニティーセンターきたの
にて、こんな催しものがあります。

お時間、ある方は是非!