カルディコーヒーのチャイはうまい、せんらくやです。

 

最近、よくお客さんに聞かれるのは、
やはりあの栃木の高校生の雪崩のこと。

山をやっているということで意見を求められる。

この件については考えがまとまらないというのが実状である。

 

山をやらない人にとっては

「わざわざ、山に行かんでもええやろ」という意見もあるだろう。

それもわからんでもない。

しかし、「排除の論理」からは何も生まれないので
そちらのお考えの方もご了承いただきたい。

 

物事というものは立場が変わると見方や意見は変わるもので

この事故に関して、私は「高校山岳部の子を持つ親」、「山岳指導員」、
「捜索隊」、「登山愛好家」、「無関係な人」と五つの立場からみてしまう。

一人で五つの立場。
考えがまとまるわけもない。

 

言えることは

どんなに報道が「犯人捜し」をしようが、失った命は元には戻らない。

どんなにスポーツ庁が高校生の冬山登山を中止しようが、失った命は元には戻らない。

どんなに遭難が起こっても、山を登るやつは山登りをやめない。

 

何が起こったのかという事実を
現場にいて生き残った人から聞きこんで、
当日の気象状況、雪の状況、地形、などなど
しっかり、丁寧に検証することが大切なのでは。
そして、それを後世の判断基準、指針の一つにしなければならないのでは。

また、その情報を周知させることなのでは。
 

これは山に限ったことではないと思う。
災害や農業、工業、商業、人間関係、外交、人の営みはなんでもそうだと思う。
人類はトライ&エラーを繰り返してきてここまできている。
過去のエラーを財産に変えていくことが実は大切で

それを忘れるから同じエラーを繰り返してしまうのでは。
忘却もエラーも必ず起こるものなのだから。

儲かることもないし、世界経済、株価にも影響を与えない調査になるだろう。
しかし、こういった悲しい経験を糧に、
同じような事故が繰り返されないように、
自分でも繰り返さないように。
悲しい事故を、尊い命を財産に転換できるように。
それしかないと思う。

 

「死」はいつも「生」のそばにいる。

「死」という別れ方はとてもとても悲しいもの。
しかし、それ自体は忌み嫌うものでもなんでもないと思う。

生きている者に必ず訪れるものなのだから。

是諸法空相。

 

どう生きるか?
私はこの事故から改めて考えることにする。

 


2017年4月6日 朝日新聞 声より

一緒に登山道整備をしたこともある、
「登山の教科書」の著者 中井正則さんの意見が掲載された。
滋賀版?関西版?では掲載されていなかったので、遭対委員長に送っていただいた。
 


 

とある捜索の日。
みんなで名前を叫びながら「がんばれよ~」とつぶやきながら歩く。
要救助者発見時のための防寒着や温かい飲み物や食べ物をたっぷり担いで。
無事発見終了後の下山時は、みんなにこやか。
「命の尊さ」を改めて嚙みしめる時。
山で飲むチャイは遭難しなくてもうまい。