気分は山岳カメラマン、せんらくやです。
まだまだ、山の遊びの形はいっぱいありそうです。
私は整体しながら、クライエントさんの話を聴くことが大好きです。
まだまだ、山の遊びの形はいっぱいありそうです。
私は整体しながら、クライエントさんの話を聴くことが大好きです。
なんでかというと自分と違う人生を歩んできた人の経験を
分けてもらえる気がするからです。
分けてもらえる気がするからです。
そして、その感覚や考えの違いを聴くことはそれ以上に興味深い。
「え?おれはこう考えるのに違うんや~!」とか
「お~~!そんな感覚でとらえるか!」とか。
自分と違う他者はちょっとくらい共通項はあっても、
全て自分にとっては新しいものです。
新しいものって山道具でもなんでもワクワクします。
「お~~!そんな感覚でとらえるか!」とか。
自分と違う他者はちょっとくらい共通項はあっても、
全て自分にとっては新しいものです。
新しいものって山道具でもなんでもワクワクします。
ワクワクはいい刺激です。
そして、世の中にはいろんな人がいます。
シンプルなところで男と女。
体育会系、文科系。
ポジティブ、ネガティブ。
山派、海派。
甘党、辛党。
新田恵利派、河合その子派・・・ちなみに私は高井麻巳子派。
おっと、話が逸れてしまった。
山派、海派。
甘党、辛党。
新田恵利派、河合その子派・・・ちなみに私は高井麻巳子派。
おっと、話が逸れてしまった。
それを世界レベルでみると、人種、宗教、言語、文化、風習、などなど
もっともっと、様々な多様性(違い)がある。
突っ込んだことを書くとLGBT、身障者も多様性(違い)に含まれる。
(↑これについてはもっと考察があるので、またの機会に・・・)
(↑これについてはもっと考察があるので、またの機会に・・・)
その多様性(違い)が認められないとすると
世界はとんでもなく不幸なゾーンへ突入してしまう気がするのは私だけではないはず。
多様性(違い)を認めないとはどういうことか?
「自分の価値観」という物差し、フィルター、サングラスをかけたまま
物事をみているということではないだろうか?
好き嫌いというものは自分にとって都合が良いか悪いかで
決定されていることが多いと感じる。
「あの人は私にやさしいから好き」
「あの人は、私の欠点を指摘するからきらい」などなど。
これはもちろん私にもある。
誰だって嫌なこという人よりも、「いいね、いいね」って
言ってくれる人の方がいいに決まっている。
世界はとんでもなく不幸なゾーンへ突入してしまう気がするのは私だけではないはず。
多様性(違い)を認めないとはどういうことか?
「自分の価値観」という物差し、フィルター、サングラスをかけたまま
物事をみているということではないだろうか?
好き嫌いというものは自分にとって都合が良いか悪いかで
決定されていることが多いと感じる。
「あの人は私にやさしいから好き」
「あの人は、私の欠点を指摘するからきらい」などなど。
これはもちろん私にもある。
誰だって嫌なこという人よりも、「いいね、いいね」って
言ってくれる人の方がいいに決まっている。
そこで物事を「良し悪し」でみるのではなく
もし「本質」でみることができたら・・・
「あの人がやさしいのは、社内でもめ事を作りたくないという性格からだから」とか
「あの人が欠点を指摘するのはクオリティ、基準を下げない、高めるためだ」とか
「私」という立場から離れてみてみると「本質」のようなものがみえることもあるかもしれない。
(ちょっと「多様性」からはずれて「本質」の話になってしまったが,
この話もまた、別に機会に・・・)
インターネットの発達で世界の情報がどんどんと入ってくる今、
多様性(違い)は自分に無いものを補ってくれるもの、
新しい世界の扉を開く価値観に変わるのでは。
新しい世界の扉を開く価値観に変わるのでは。
他者の多様性(違い)を認めることで、本質を見極める。
相互に学び合う。
そうすることで人は本当に自分の存在を認める。
自分や他者を愛する(幸福にする)ことができるのとちゃうかな~~と考えてみました。
21世紀は多様性を認め合うスタートレックのような時代の始まりかも。
それって、きっと本当の意味での自由なのかもしれない。
LOVE、FREEDOM!
ほら、カッコだけは山岳カメラマンみたいでしょ?(笑)
そして、二回目の登場です。
生まれたそのまんまでええんですよ、って歌。
生まれたそのまんまでええんですよ、って歌。