撮影の練習と言いながら呑む、せんらくやです。

 

突然ですが、私はいつ、死んでもいいと考えています。

「おっと、せんらくや、ついにおかしくなったか?」

そうお考えの方もおられるかもしれません(笑)
安心してください、これは死生観の話です。

決して「今、死にたい」という話ではありませんよ。

 

実は整体を始めた時にあるジレンマにとらわれたことがあります。

それが「時間と死」でした。

「元の体に整えます!」なんて、整体のお決まりのキャッチフレーズ。

「いやいや、それはないでしょ~、

元の体ってなんやねん?絶対に若返ることはないやろ~」

って、突っ込んでました。


時間と共に人は必ず死に向かっている。

それは生まれた瞬間から始まっている。

避けることができない生老病死。

これは紛れもない事実で、現実。

整体って意味あるんか?
 

 

私の趣味の山登りでは、一歩で簡単に死を迎えることができる。

普通に歩いていた時は、頭ではわかっていたけどリアルには考えていなかった。

山仲間が初めて遭難者を残念な形で発見した話を聞いた時は涙してしまった。

そして、その後、私も捜索に参加させていただくようになり、
数回残念な形で発見したことがある。
が、しかし、発見するたびに気持ちに変化が表れた。

それは忌み嫌うものではないのでは?と。

 

昨年、私が20歳の頃にお世話になったFさんが大腸ガンで亡くなった。

死の一週間前に「もう時間がない」ことを知り、Fさんの入院しているホスピスを訪ねた。

ホスピスへのお見舞いは初めてのことで、何を持って行けばいいのか思案した。
Fさんがいつも報知新聞と週間モーニングを読んでいたことを記憶の奥から引き出し

それをコンビニで買って持っていった。
 

もう報知新聞もモーニングも読める状態ではなかった。
見る影もなく痩せて、モルヒネが効いているのか、酔っているようだった。
 

Fさんには酒の飲み方を教えてもらった。

本当によく連れて行ってもらった。

仕事が終わりかけると「谷口、行くか!」なんて、

ひげ面、メガネでうれしそうに、にやけていた。

そんなFさんと二人で飲んだ思い出がよみがえった。

猛烈に悲しくなった。

 

家族でも近い友人でもないのに。

長い間、会っていなかったFさんの死で私の生活が激変するわけでもない。

なのになんで?

それはきっと、当時の自分を知る人がいなくなること。

共有していた思い出を分かち合う人がいなくなること。

自分の一部、(平野敬一郎風にいうと「分人」)が一人いなくなること。

そんな悲しみだったのかもしれない。

 

しかし、それはあくまで私の気持ち、主観である。
 

旅立ったFさんの気持ちがどうなのかはわからない。

Fさんも私と飲めなくなって寂しいのだろうか?
この世から旅立つのは悲しいのだろうか?
もし、あっちの方がこっちより断然楽しかったら?

 

そんなことを考えると

「これは、Fさんに聞かなわからん。」と、変なところで落ち着いてしまった。

人の死を主観から外してみたことで、いろいろと見えてきたものがあった。

 

焼酎お湯割り
一眼レフカメラで撮影の練習。